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韓国時代劇「王と妃」

韓国時代劇で、今見ているのは、海神、朱蒙に加えて、王と妃。

この王と妃は、最初何がなんだかわからなかった。

戦のシーンもなければ、明確な人間関係もなく、大勢の朝鮮王室関係者が出てきて、似たような服を着て、似たような称号、王妃、大君、中尉などが何人も出てくる。

見始めたのが、テ・ジョヨンを見始めたのと同じころで、およそ59話位だったと思うが、先日、途中の部分が、J-COMのHDR故障で、消えてしまった。
あわてて、ビデオテープにダビングしながら、せっせと見始めた。

なんとか、筋が理解できるようになったのだが。。。。
王が泣いてばかりいるシーンは、いったいどうしたのだろうか、と思った。

「王妃と生き別れさせられるなんて、嫌だ」とすがる王(端宗)。
王妃は、中尉と呼ばれていて、手縫いで王の防寒具を作る。
王妃の父親は、拷問され、結局、王妃の父とは母は、官奴にされてしまう。

王は、殺されなかったものの、王宮を出て、山奥の流刑地へいく。

毎日泣き暮らす哀れな少年の元王。

首陽大君は、端宗から、王位を奪い、世祖となったものの、長男が病死する。

主人公の妃とは、この死んだ長男の妃であるインス王后のことであり、政治に深く関与したのだそうだ。
後に、最悪の暴君である燕山君と対立するとか。

李氏朝鮮の歴史を調べた。

以下引用
登場人物(KBSWORLDから)

                                                                                                                                                                                                                                                                                        
世祖-セジョ
                    (1417年~1468年)
首 陽大君。幼い甥端宗から王権を譲り受けたあと14年間君主の座に就いていた。端宗のことで最初は非難を浴びたがその後は百姓のために多くの仕事をした。特 に王権を強化するのに努力し朝鮮王朝を成長させる原動力になった。文武両道で冷徹かつ理知的でありながら優柔不断な面もあった。王権を握った後の世祖の罪 意識もまたそんな性格欠陥のためで、太宗と違い後継者問題をきれいに片づけられないのもそのためだ。
婦人尹氏
-貞熹(チョンヒ)王后
坡平の尹?の娘。控えめでつつましくまじめで?職もしっかりやる。王妃になった後もさらにつつましく宮中で行われる細かい事でも必ず王の意思に従ってから行った。世祖との間に2男 1女を授かり孫成宗が即位すると幼い王に代わって政治を行った。
綏嬪韓氏
                    -昭惠(ソヘ)王后
仁 粹(インス)大妃。桃源君の夫人。韓確の娘で政治に深く関与した女。ハン・ミョンフェ, シン・スクチュ, クォン・ナムらと親密になり苦境にたった時は彼らを助けもする。その縁で綏嬪韓氏は自分の 2番目の息子成宗を王の座に就かせることに成功する。大妃となったあとも引き続き政治力を発揮し後に燕山君と激しく対立する。
ハン・ミョンフェ
(1415年~1487年)
建国功臣韓?質の孫で知略と權謀術に長けていて首陽大君に推挙された人物。その後世祖の寵愛を受け1468年世祖が死ぬと国政に専念。財物と女を貪り貢物をする者が絶えない。漢江沿いにアックジョンという東屋を建て遊び人仲間と風流を楽しむことが好きだ。
シン・スクチュ
                    (1417年~1475年)
多くの集賢殿の学者たちと違い首陽大君集権に協力し世祖即位後政府要職を歴任した。彼は日本へ奉使し癸亥條約を締結するのに手柄をたて庚辰北伐などでも功績を残した。
端宗-タンジョン
                  (1441年~1457年)
魯山君。文宗の1人息子で母は権氏。戊申年4月3日に世宗が王世孫としてその座に就かせたが、年が若すぎて国政を行えず首陽大君にその座を譲る。死六臣の事件で流罪に処されこの世を去る。

ウィキペディアから


正式の国号は朝鮮國

高麗王位を簒奪して高麗王と称した太祖李成桂は、即位するとすぐに権知高麗国事と称してに使節を送り、権知高麗国事としての地位を認めてもらう。

明より、王朝交代に伴う国号変更の要請をうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、新王朝の国名に「朝鮮」と「和寧」の2案を挙げ、明がこれ に応えて李成桂を「権知朝鮮国事」に封じたことにより朝鮮を国号とした。ちなみに和寧と言うのは李成桂の出身地の名であり、現在では国号の本命ではなかっ たとの意見が多い。

朝鮮半島には衛氏朝鮮などの朝鮮を国号に持つ王朝がかつて存在したので、日本ではそれらと区別する為に「李氏朝鮮」あるいは「李朝」と呼ぶことが多い。学術的には日本でも近年「朝鮮王朝」という呼び方が広まりつつある。[1]

韓国では、「李氏朝鮮」「李朝」と言う名称は植民地史観に基づくものとされるため、国内では一般的に使用されていない。通常、李氏朝鮮が統治していた時代は「朝鮮時代」、李氏朝鮮の王室は「朝鮮王朝」と呼ぶ[要出典]。古代に存在した朝鮮の国号を持つ国は古朝鮮と呼び区別している。中国においては日本と同様「李朝」という用例が見られる。朝鮮民主主義人民共和国では歴史教育の場で封建統治者を批判する時に限ってのみ「李氏朝鮮封建統治輩」「李朝封建国家」という言葉を使用している。

1897年、清の冊封体制からの独立後に国号を大韓帝国と改称した。その略称は韓国である。

[編集] 歴史

李氏朝鮮の歴史は、国内政治的には、建国から端宗までの王道政治の時代(1393年 - 1455年)、世祖の王権纂奪から戚臣・勲臣が高官をしめる時代(1455年 - 1567年)、士林派による朋党政治(1567年 - 1804年)、安東金氏・閔氏などの外戚による勢道政治(1804年 - 1910年)の区分に分けられる。

一方、対外関係を主体にみると、約500年に及ぶがの朝貢国であった時代(1393年 - 1637年)と、の朝貢国であった時代(1637年 - 1894年)、清と欧米の列強および日本が朝鮮に対する影響力をめぐって対立した末期(19世紀後半 - 1910年)という3つの時代区分に大きく分けられる。

第1の区分の末期には、倭乱(日本の侵攻)と胡乱(後金(の ちの清)による侵攻)と言う大きな戦争が朝鮮半島内で発生しており、この影響で国土が焦土化し、社会形体が大きく様変わりしている。第2の区分の時代に は、清の支配を反映して、中国が夷狄の国である清に支配されている以上、自国が中華文明の正統な継承者であると言う考え(小中華思想)や、逆に現実には武力と国力で清に太刀打ちすることは難しいことから臣下の国として礼を尽くすべきとする思想(事大主義)や、中国から離れている日本を野蛮であると蔑視する思想などが保守的な儒学者を中心として広く根付き、朝鮮朱子学の発達が進んだ。その後は儒教内部で改革的な実学思想が生じ、又洋学などが発生した。これらは支配層からたびたび強い攻撃を受けたが、開港後の改革運動の母体ともなった。

19世紀末期になると、欧米列強や日本、清などの介入が起こる。結局1894年の日清戦争で日本と清が戦って日本が勝ち、清との冊封関係も消滅したことで日本の強い影響下におかれ、朝鮮は第3の区分に入った。

しかしこの時代は、国内的にはロシアと日本の対立に巻き込まれ、それに派閥の対立も絡んで深刻な政治状況に陥っていった。親日路線をとる派は、親ロシア派や攘夷派などの妨害を受けた。近代化論者の中にも親日派や親露派、攘夷派が混在しており、それが混乱に拍車をかけた。日露戦争で日本勝利後は日本の影響力の向上に伴い宮廷内では親日派の力が大きく伸張した。日本と韓国内部の李完用などは日本が韓国を保護国化・併合する方針を採り、一進会は「韓日合邦」を主張した。日露戦争後の第二次日韓協約で日本は韓国を保護国化し、実質的な支配権を確立した。1910年に日本と韓国は日韓併合条約を結び、韓国は消滅した。

李氏朝鮮時代の特徴は500年の長きにわたって続いた儒教道 徳に基づく統治である。これは一面では身分制度を強固なものとし、誤った差別意識を助長したり、現実に沿わない外交、内政を支配者に行わせる原因となっ た。その一方で儒教は高麗末期の腐敗仏教を打破し、また王朝後期には革新思想が生まれてきたように知識人が政治や社会の変革を考える要因ともなった。儒教 の影響力がかなりの程度減じた現在の韓国、北朝鮮でも、このような儒教の二面性は形を変えつつ存続しているとされている。文化的には高麗青磁を受け継いだ李朝白磁があり、前代の華麗さに対して優美さを基調としたものと評価されている。儒教道徳を曲解した支配者からの差別も非常に根強かったが、白磁は李朝を通じて優れた職人達の手を通じ堅実な発展をみせ、日本の陶磁器にも大きな影響を与えた。

[編集] 建国と混乱 - 太祖から端宗まで

13世紀以来、の属国となっていた高麗は、元の衰退に乗じて独立を図るが、北元の南北対立や倭寇の襲来によって混乱し、混沌とした政治情勢にあった。

1388年、高麗の武将、李成桂は明が進出してきた遼東を攻略するため出兵を命じられ鴨緑江に布陣したが、突如軍を翻してクーデターを起こし、高麗の首都開城(開京)を占領、高麗の政権を完全に掌握した。その背景には、李成桂がもともと反元・親明派であって王命に対する反発があったことに加え、当時行き詰まっていた高麗の政治を改革しようとする新興の儒臣官僚たちの支持があった。

遼東攻撃を不当とした李成桂は、当時の王(禑王(は示禺))に対してその不当性を主張し、これを廃して昌王を王位につけた。この時の李成桂の主張には「小国が大国に逆らうのは正しくない」というものがあり、事大主義だと批判する歴史家もいる。一方で、当時の高麗の軍事力で明と戦うのは無理であり合理的選択であったと考える見方もある。

こうして、高麗の政権を掌握した李成桂は、親明政策をとり明の元号を使い、元の胡服を禁止し、明の官服を導入するなど政治制度の改革を始めた。だが、昌王の即位に対しては李成桂の同志でライバルでもあった曺敏修との間で対立があり、李成桂は昌王を廃位し、1389年に最後の王恭譲王を即位させた。その際、先々代と先代の禑王と昌王は殺された。このとき既に、家臣の中には李成桂を王位に就けようという動きが有ったが、李成桂はこの時は辞退している。だが、やがて李成桂を王にしようとの勢力は次第に大きくなり、この勢力に押されて、1392年に恭譲王を廃位し、自らが高麗王になった。王位から追い出された高麗王家の王一族は、都を追い出され、2年後の1394年に李成桂の命令でことごとく処刑されている。このとき李成桂は王姓を持つものを皆殺しにしようとしていたため、その難を逃れようと多くの者は改姓をしたと言われている。全氏や玉氏、田氏などは姓を変えて難を逃れた王氏の一族であると言われていた。

高麗王として即位し、王制などもそのままであったが即位後、明へ権知高麗国事と称して使者を送り、権知高麗国事としての地位を認めてもらう。明より、王朝交代に伴う国号変更の要請を受けた事をきっかけに家臣の中から国号を変えようとする動きが活発化し、李成桂もそれを受け入れた。しかし李成桂は明に対して高麗王の禑王、昌王を殺し、恭譲王を廃位して都から追い出した負い目があり、明へ国号変更の使者を出した際、自分の出身地である「和寧」と過去の王朝の国号である「朝鮮」の2つの国号の案を明に出して恭順の意を表した。翌年の1393年2 月、明は李成桂の意向を受け入れ、李成桂を権知朝鮮国事(朝鮮王代理)に冊封して国号が朝鮮国と決まった。朝鮮は李成桂が新たな国号の本命として考えてい たものであり、この結果は彼にとって満足の行くものであった。しかし明は、李成桂が勝手に明が冊封した高麗王を廃位して代わりの王を即位させたり、最後に は勝手に自ら王に即位して王朝交代したことを快く思わなかった。それゆえ李成桂は朝鮮王としては冊封されずに、権知朝鮮国事のみが認められた。

朝鮮に国号を改称した李成桂は新たな法制の整備を急ぎ、また漢陽(今のソウル)への遷都を進めた。崇儒廃仏(儒教を崇拝し、仏教を排斥する)政策をとり、儒教の新興と共に仏教の抑圧を開始した。しかし、この政策は李成桂が晩年仏門に帰依したため一時中断され、本格的になるのは李成桂の亡くなった後の第4代世宗の時代になる。仏教弾圧の理由には、前王朝高麗の国教が仏教であったということが大きな理由の一つとして挙げられる。

李成桂は、新王朝の基盤を固めようとしたが、意外なところから挫折することになる。李成桂は自分の八男である李芳碩を跡継ぎにしようと考えていたが、他の王子達がそれを不満とし、王子同士の殺し合いまでに発展した。1398年に起きた第一次王子の乱により跡継ぎ候補であった李芳碩が五男の李芳遠(後の太宗)により殺されてしまう。このとき李成桂は病床にあり、そのショックで次男の李芳果に譲位してしまう。これが第2代定宗である。しかし定宗は実際は李芳遠の傀儡に過ぎず、また他の王子達の不満も解消しないことから1400年には四男の李芳幹により第二次王子の乱が引き起こされる。李成桂はこれによって完全に打ちのめされ、仏門に帰依する事になる。

一方、第二次王子の乱で反対勢力を完全に滅ぼした李芳遠は、定宗より譲位を受け、第3代太宗として即位する。太宗は、内乱の原因となる王子達の私兵を廃止すると共に軍政を整備し直し、政務と軍政を完全に切り分ける政策を取った。また、李氏朝鮮の科挙制度、身分制度、政治制度、貨幣制度などが整備されていくのもこの時代である。

明に対しては徹底的な親明政策を取り、1401年には明から正式に朝鮮王の地位に冊封されることになる。また、倭寇対策に対しても積極的な政策を取ることになる。太宗は、1418年に世宗に王位を譲り上王になったが、軍権はそのまま維持し、1419年応永の外寇の指示にも当たっている。

次代の世宗、いわゆる世宗大王の時代が、李氏朝鮮の中で政権が最も安定していた時代とされる。王権は強固であり、また王の権威も行き届いていた。一方で1422年まで太宗が上王として実質的な権力を保持していた。世宗は、まず政治制度を王の一極集中型から議政府を中心にした官僚主導の政治に切り替えた。これには世宗の健康問題もあったと言われている。また、明との関係を良好に保つための人材育成にも力を入れた。その中の作業の一環として、現在のハングルの元になる訓民正音の編纂作業が行われた。世宗の時代は31年に及び、軍事的安定と政治的安定のバランスが取れていた時代である。またこの時代に貨幣経済の浸透がすすんでいった。対外的には侵攻戦争をたびたび行い、1437年には豆満江以南の女真地域を侵攻し制圧、六鎮を設置して支配した。その後も、女真とは対立を続け、幾度も侵攻に乗り出している。

第6代の端宗(第5代文宗の息子)は11歳で即位したため、政治に関しては官僚が全てを決済する形となり王権の空洞化が進んだ。それに伴って他の王族の勢力が強くなり、度々宮廷闘争などが頻発する様になる。その混乱の中で、文宗の弟であり端宗の叔父である首陽大君はたくみに勢力を拡大し、1455年に端宗から王位を強制的に剥奪し、自らが王位に就く。これが世祖である。

[編集] 勲旧派と士林派の対立と士禍 - 世祖から明宗まで

世祖が王位につくと反対勢力を排除し、王権を自らの元に集約する。軍政や官制の大幅な改正を行い、軍権を強めると共に職田法を 導入して、歳出を抑えた。これらの政策は地方豪族の反発を招き、地方反乱が頻発する様になる。世祖は逆にこの反乱を鎮圧し、中央集権体制を確立させるのに 成功する。一方で、日本とは融和政策をとり外交を安定させると共に、民生を安定させた。しかし強権的な中央集権主義により、高級官僚は自らの側近で固めら れ、実力のある者も高位には就けなくなった。また批判勢力を弾圧し、自らに服従する功臣達を優遇した。これらの世祖に優遇された功臣達は後に勲旧派と呼ばれる様になる。また、儒者の多い批判勢力を牽制するために仏教優遇政策を取った。

世祖が亡くなった後は、幼い王や夭折す る王が続いたため、国政は安定しなくなった。また、王族である亀城君が世祖と同じ事をするのではないかと恐れた大臣達は彼を追放し、王族の政治への関与を 禁止した。これによって、政治の中枢から王族は排除され、臣下の牽制としての王族の役割は終了する。政治の中枢は勲旧派が占めており、かれらが政治を壟断 していたが、成宗の時代になると士林派勢力を取り入れるようになり、これに脅威を感じた勲旧派や外戚と士林派勢力の対立を産むことになる。成宗の在位は1469年から1494年までの25年と長く、政治的には一応の安定を見た。しかし成宗が亡くなり燕山君が王位に就くと、勲旧派と士林派による対立が表面化し、1567年まで続くことになる。

燕山君は、口うるさい士林勢力を鬱陶しく思っており、それと勲旧勢力による諫言などもあり、それが、1498年の最初の士禍戊午士禍と言う形で現れる。この時、士林勢力の筆頭・金宗直を始め多数の士林派が王宮から追放された。その後も1504年甲子士禍で士林勢力の大量殺戮を行い、この勢力を殺ぐ事につとめていた。だが1506年、朴元宗らのクーデターにより、燕山君は廃位、そして追放された。

次代中宗の時代も勲旧派と士林派の対立は止まらず、政局の混乱が続いていた。その中で、朝鮮居住の対馬の民などによる三浦の乱が、1510年に起きている。中宗は、最初士林派を積極的に登用していたが、士林勢力の首魁であった趙光祖の改革があまりに性急であるため中宗は却って不安を感じ、勲旧勢力の巻き返しもあって、1519年に趙光祖一派は投獄、追放、死刑などにされ(己卯士禍)、士林派の勢力は大きく後退してしまう。その後も勲旧勢力と士林勢力は繰り返し衝突し、政局は混乱を続けていた。明宗が即位した年の1545年には乙巳士禍が起きている。

この時代に起きた、戊午士禍、甲子士禍、己卯士禍、乙巳士禍の事を四大士禍と呼ぶ。



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