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正祖のドキュメンタリー番組

正祖をテーマにしたドラマがたくさんある。

韓国史傳で、正祖のドキュメンタリー番組を見た。

実際の正祖のことを、記録したいと思い、番組の内容(主に字幕)を書き留めた。

1795年、正祖19年、スウォン城
朝鮮の歴史上、例を見ない大規模軍事訓練が始まった。見物していた大臣達は不安に包まれた。彼らは、君主、正祖の並外れた威容を恐れた。
文書の中に、「軍容」「君主の度を超した軍事行動」「臣下たちが身をすくめて恐れた」よろいに身を固め、六千の兵を指揮する王の姿。
画面には、高いやぐらのような建物で、指揮をする正祖の姿が。
なぜ正祖は自ら兵を率いたのか?

『武人 正祖大王』
朝鮮の歴史上最も学識の高かったのが正祖大王です。正祖は朱子学だけでなく、文学や科学、医学にまで、あまねく精通していました。☆章閣で、文臣に直接教えるほど、学者としての自信も並々ならぬものでした。
朝鮮最高の学者君主だった正祖、しかし正祖はその裏にまるで違う姿を隠していました。正祖は兵を直接率いて、訓練を指揮したり、自ら武士の姿を見せることも度々ありました。しかし、王位に就くまでの道のりは平坦ではありませんでした。

1775年
「命をお取り下げください」
英祖51年、彼が82歳を迎えた年、英祖は世孫に譲位することを臣下に明言した。
承旨に記録を取るよう命じた時、予期せぬ事態が起きた。
「命をお取り下げください」
臣下たちは英祖の命を拒否し、承旨の記録を妨害した。しかも、その場には世孫である正祖も同席していた。

『英祖実録1775年11月30日』
英祖実録は、当時の緊迫した状況を詳しく記録している。

揮手:『手を振って、承旨の記録を邪魔する』
この時、ホンイナンが承旨の前をふさぎ、書くのを邪魔するだけでなく、王の命が聞き取れないようにした。
重大な王命までも拒否される厳しい現実を世孫は早くも体験した。

『国立全州博物館』
国立全州博物館に、幼い世孫の心情を推し量る書が残っている。
世孫が12歳の時に書いた書
『正祖12歳 世孫時代の親筆』
『陳善閉邪之敬』
王に善行を勧め悪行を防ぐのが臣下の道理だという意味だ。

陳善閉邪之敬は、孟子の中の句で、正祖が12歳の時に書いた作品です。臣下が王をどのように補佐し、いかに敬うかについての姿勢を正す句です(イギョンチョン氏 ウォンガン大学書芸学科)
正祖は、亡くなった父親、思悼世子のことを思い、皮肉を込めて、意味深長に当時の臣下の過ちを指摘する姿勢を示したのです。

12歳の世孫の目に映った臣下たちの過ち、邪悪なものとは何だったのか?

壬午年閏5月13日、正祖の怒りはこの日の事件が発端だった。
米びつに閉じ込められ、死んだ正祖の父親、思悼世子。派閥争いの犠牲となったのだ。幼い世孫は父の死をしっかり見届けた。父の恨みを自ら晴らすことで、親孝行を果たす決心をした。
思悼世子は8日間閉じ込められた末に餓死した。当時、世子の見張り番、クソンボクとその一味は、世子を笑いものにしていた。米びつの横で酒盛りをしながら、餅や酒を米びつのそばに近づけるクソンボク。
「餅が食いたきゃ、餅をやろう、酒が飲みたきゃ、酒をやろう」。
キムムンシク教授タングク大学史学科「父の死を目撃し、報復心が生まれて当然です。父の死に際して何もできなかったのですから。正祖が王になる直前、英祖末年に父の墓所を参拝する涙ぐましい行事がありました」
正祖が世孫時代を過ごした慶☆宮
ここで正祖は数々の苦労を経験した。その苦しみを彼は日記に残した。
「私が日記を書くのは、今受けている窮迫を後世に伝えるためだ」(尊賢閣日記)
正祖が残した尊賢閣日記(世孫時代の日記)英祖末年、王位継承をめぐる正祖と臣下との争いが、あからさまに記録されている。当時、老論の高慢と威勢が極限に達していたことが分かる。
王に会っても、腰をかがめないどころか、履き物をひきずる音を立て、控え恐れるそぶりも見せなかった。
彼らは、世孫を“手中の物”として扱い、絶えず脅迫した。凶徒らが、各所に腹心をもぐりこませ、昼夜にわたって私を見張り脅した。
絶えず政敵が監視し、互いに脅した時代。正祖は死にたい思いを吐露した。
「恐怖と不安に駆られて、いっそのこと死んでしまいたい」
パクヒョンモ教授韓国学中央研究院「思悼世子の息子が王位に就けば、燕山君のように一族滅亡の危機にさらされるかもしれないので、世孫イサンの王位継承は絶対に防ぐべきだという点で一致しました」
老論を筆頭に大臣たちは、露骨に世孫に反対した。
「東宮は老論だとか、小論だとか知る必要がありません。吏曹判書や兵曹判書の仕事を知らなくても良いのです。朝廷のことはなおさら知る必要がありません」

世孫が知らなくてよい三つのこと『三不必知之説』だ。史官は朝廷のすべてを記録すべきだが、老論大臣に脅され、記録できなかった。臣下の権勢は国家を上回っていた。

1776年正祖即位。
1776年3月10日、あらゆる威嚇と困難を乗り越え、正祖はついに王位に就いた。
即位した日、大臣達の前で、自身が思悼世子の息子だと言明した。朝廷の権力はすでに老論が握っていた。その上、思悼世子をあざ笑っていたクソンボクが兵権を握っていた。
「クソンボクを八つ裂きにして、その肉を食らっても物足りない。経莚に上がるたびに体中が震え、顔も見たくなかったー正祖実録」
しかし正祖は、兵権を握っていた彼をどうすることも出来なかった。

1777年正祖1年、即位直後、実に3度も刺客が王宮に侵入した。正祖実録には正祖が威嚇された事実が記録されている。(盗の字(泥棒)をマークした実録の文章)
正祖1年7月には、とうとう正祖の寝室に刺客が侵入する事件が起きた。物理的な威嚇に加え、臣下たちは王位継承の正当性すら問題にした。
『罪人之子不為君主』
罪人の息子、正祖を承認できないと言い出した。
「危険が生じた際には、逃げる手立てを講じる必要がありました。その不安感が正祖初年にも続いていました。宮中に侵入した刺客の暗殺計画が発覚し、周囲を騒がす噂にいつも気を付けていました」
世孫時代から絶えず威嚇が続く中、正祖は落ち着いて寝られなかった。
「昼は気をもみ、夜は眠れず、部屋中を回ったー尊賢閣日記」
正祖にとって王位は不安と恐怖そのものだった。
「針のむしろに座るように怖くて危うい」

“罪人の息子”の汚名を着て、やっと王位に就いた正祖。しかし、王になった後も状況は変わりませんでした。すでに朝鮮は臣下たちが支配していたし、しかも彼らが信奉した朱子学の理念では、王の絶対的権力を認めませんでした。王を王と認めない老論たちの国、朝鮮で、正祖は自ら生き残る道を探さねばなりませんでした。

正祖はどの道を選んだのか?
『スウォンペク氏宗親会』この宗親会で、意外な事実を発見した。ペクドンスという見慣れない武官の名前。
「気骨があって、力強い方でした。百人を相手に戦えるほどの勇名を持った武人でした

18世紀の朝鮮に伝説的な武人がいた。
「ペクドンスは別世界の人だー青荘館全書」
彼の武芸はとび抜けていた。
「野☆ペクドンス」は天性の野人だった。
正祖は彼のような武人を探していた。武が見下された朝鮮時代、正祖は優れた武士を養成して朝鮮武芸を改革しようとした。
イソンモ、イサンヨン、チョジュンジョン、正祖時代に実施した37回の武科試験では、毎回多数の武士を輩出した。

正祖8年、父思悼世子の尊号を荘献世子に改めたのを記念して、正祖は大規模な武科試験を実施した。正祖は武士を選ぶため、随時王宮の外に出た。自ら試験科目を定め、監督もした。身分や出身に関係なく、実力本位で武士に選抜された。この日の試験では、定員の他、2900人の合格者を出した。
応募者の中には、70歳80歳の老人もいた。
正祖は最終的に30人の武士を選んだ。
この30人を基に正祖の護衛部隊“荘勇営”が誕生した。
“荘勇営 正祖の護衛部隊”

正祖は兵士数を毎年増やして、荘勇外営と内営を設置し、荘勇営の威容を確立していった。正祖は兵士の訓練を直接指揮した。特に、“十八技”を集中的に身につけさせた。

“陸軍博物館”
正祖は十八技を集大成した武芸書を編集し、普及に努めた。
「これが、正祖が作った武芸図譜通志」です。
思悼世子が完成させた十八技にマサン武芸六技を加え、編集したのが、『武芸図譜通志』だ。正祖はこの本を兵士に配り、その技を練習させた。各部隊は、十八技を基本に訓練方式を統一した。正祖の構想を基に荘勇営は最高の精鋭部隊に成長し続けた。
「この本の技を身に着けて。優れた武士になれー譜通志序文」

「荘勇営故事」は兵士達の訓練量を記録している。一日三千発以上の矢を射るほど、兵士達は、厳しい訓練を受けた。

「記録によると、正祖は荘勇営兵士に大変厳しい訓練を施しました。訓練後に兵士個々人の技量をいちいち確認して、詳細に記録しました」
「荘勇営兵選抜に特別な意味がありますか?」
兵士「荘勇営に選抜されることは、王に認められた武士になることだ。朝鮮の武士で勇営入隊を夢見ない者はいない」
「このように、荘勇営は徐々に威容を整えていきました。同時に臣下たちは荘勇営似たいし、不満をさらけ出しました」

荘勇営を非難する上疏があふれ出た。

「無用の荘勇営」
「行き過ぎた経費の無駄」ーオイクァンの上疏

当時、軍権は、老論をはじめ、両班勢
道家門が掌握していた。軍部は以前から老論権力層と結託していた。王の手を離れ、志へ生かした軍隊を、正祖は憂慮した」

“私兵の弊害と多門の心配ー正祖実録”
イテジン教授ソウル大学国史学科「既存の軍は、特定の宗派の人物と、結託していたので、有事の際にも王への忠誠心が保証されませんでした。そこで、正祖は五軍営の弊害を覆そうとして、人を引き抜き、荘勇営に集めました」

正祖は司令官の姿で兵士を直接訓練した。彼が軍権を掌握できたのは、高い武芸を身に着けていたからだ。彼は、陣法書「兵学通」を作るほど、陣法に関心を持っていた。正祖は陣法の習得を重視し、当時、☆章閣の文官たちも陣法の習得を命じられた。30人の武士から始まった荘勇営は、正祖の指揮下で1万8千人に増え、その威容を高めた。

「この絵は、教科書に載っている正祖の御真影です。4千巻に及ぶ膨大な書物を編集した文芸君主らしく、温和な姿をしています。ところが驚いたことに、この御真影が実際の正祖の姿とはだいぶ違うという事実です。それでは、実際の姿と違うこの絵が、なぜ正祖の御真影として残ったのでしょうか?」

スウォン華城広報館に展示された御真影。これが正祖の姿でないとしたら、どのような秘密が隠されているのだろうか。

「この御真影はイギルボン画伯が描いたものです。教科書にも載っているこの絵が、韓国で公式に認められている正祖大王の御真影です」
「想像図ですか?」
「そうです」
この絵は、学者君主正祖の姿を想像して描いたものだ。
“正祖御真影 1989年作”
実際の正祖の姿とは違っている。
正祖は生涯に3回御真影を描いたが、今では一枚も残っていない。記録には軍服を着て御真影を描かせたとある。武人君主としての強い姿を残そうとした。

「『ソノン譜略』に載っている正祖の御真影は張飛に似ています。恐ろしいイメージで描かれており、学者君主であるだけでなく、それとは違ういろいろな顔を正祖は持っています。その一つが弓を射って軍隊を指揮し、陣法を駆使する武人の姿です」

朝鮮時代の皇室の族譜『ソノン譜略』。この本にはまったく違う正祖の姿がある。これは、当時の本物の御真影を見て描いたものと推測される。角張った口元に二重あご。これは、純祖実録に記録された正祖の姿と一致する。正祖は自ら武士になろうとした特別な王だった。臣下の目の前で弓術を楽しんだり、弓術で臣下の武芸を試したこともあった。実際に神弓と呼ばれたほど弓術の天才だった。彼の弓の成績を記録した『御射古風帖』。1792年1年間に信じられない記録を作った。50発中49発的中させた日が10回あり、100発中98発命中させた日もあった。
「古風を見ると正祖王がいかに弓の名手だったか分かります」
カンシニョブ学芸研究士 陸軍博物館「1巡は5発を意味します。一度に5発ずつ10回射ます。9巡までほとんど命中させ、最後の10巡で4発命中させます。王が臣下に謙譲の美徳を示す例に従って、最後の一発は打ちません」
正祖の実力はどれほどだったか?

インチョン地下鉄公社弓道選手団:韓国を代表する弓道選手の実力と比べた。正祖の時代を同じ条件で行った。145メートルの射撃距離で、各選手50発ずつ射った。果たして何発命中するか? 優秀な選手でも40発も命中しなかった。
「普段50発全部命中させることはありますか?」
チョサンジュン監督「よくて年に一度です」
「どれほど難しいのです?」
「相当難しいです。選手にとって全部命中させるのは一生に一度あればよいでしょう」
記録によると正祖は、毎日50発命中させた時期もあった。
『小さい扇』
普通の的では飽きたらず、的を小さくして弓の精度を高めようとした。
『棍棒』
小さい扇や棍棒などを的にしたが、いくら小さくしても正祖の弓は的に命中した。
「小扇に5発中4発、棍棒は、10発中10発命中ー正祖実録」
細い的でも、10発全部命中させた。
チョンヤギョンの『与猶堂全書』
意外にも弓に関する記録がある。
『北営罰射記』
当時、正祖は☆章閣の文臣にも弓術を練習させた。
「当初は弓が壊れたり、弓がけが外れて、指がはれた。あまりの下手さに周りは笑いの渦となった」
文武両道が大事。
正祖は文臣にも弓を教えるほど、文と武の調和を重視していた。
「新しい国王の姿を示そうとしたのです。単に学問を研究する国王ではなく、強力な力で天下を治めることができるという武将の姿を示したかったのです」
武人の威容を持った正祖は臣下たちが恐れる存在になった。
軍権を基盤に臣下を脅し、配下に引き入れもした。
「これからは、恐れる気持ちを持てー正祖実録」
ここまでは準備段階だった。正祖は今後大きな嵐が起きると予告した。

「正祖は朝鮮時代の王としては珍しく、優れた武人の気質を備え、軍権を握った人物です。それでも多くの人は。正祖を学者君主だと思っています。これは文武の調和を追求した正祖の真の姿にきちんと照明を当てなかったからです。執権半ばを越えた正祖はより強力な武力基盤を整えました。10年以上軍権強化に全力を注いだ正祖の真意は何でしょう? 正祖はついに隠してきた真意をあらわにし始めます」

正祖13年7月、父、思悼世子の墓所をスウォンに移転した。正祖にとって父の復権は生涯の宿願だった。彼は、父の墓所を参拝するたびに、悲しみを抑えられなかった。正祖はもはや父に対する無念さを隠さなかった。こんな正祖の姿に老論大臣たちは、今日分に捕らわれた。彼らは全員思悼世子の死に政治的責任を負っていた。当時、老論勢力はプク村周辺に居を構え、漢陽を支配していた。
プク村チョンノ区。
集団居住によって、老論勢力は力を結集させた。
「勢道家が多数住んでいたそうですね?」
ナカクスン ソウル市史編集委員会「派閥政治を独占していた老論界は政治改革の対象でした。その老論の中心人物とその勢力が、このプク村を中心に左右の地域に住んでいました。彼らは政界の中心的な公職に就くだけでなく、その地位の後ろ盾になる軍の役職、訓練都監や御営庁と禁衛営などの指揮権も掌握していました。その権力を経済的に支える、市井の商人たちと結託していました。このプク村一帯に、政治的経済的特権を握っていた勢力が集団的に住んでいました」
プク村の老論は、チョンノー一帯の商権を握って、利益を独占していた

キョンギ道スウォン市。
漢陽を支配する老論に対抗し、正祖はスウォンを選んだ。
正祖18年、臣下を連れて、パルタル山に登った。ここで正祖は華城建設を命じた。
「築城は百年の大計のためだ、国の将来のため方策を講じねばならない」
当時のスウォンは急速に発展していた。正祖はここに要塞を建設した。大規模は離宮を設置し、外側に6キロに及ぶ城郭を築いた。経済改革も行い、老論の経済基盤を弱め、スウォンを商業都市に発展させた。華城には王の親衛部隊、荘勇外営も設置された。配置された兵士は6千人に上った。正祖は華城と荘勇営設置の意味を強調した。

「華城を築城する時も、荘勇営を設置する時も、『深い意味がある』と度々話しています。臣下たちはその意味が何かと恐れました」
正祖19年閏2月『始興行次図』
父、思悼世子と母、恵慶宮洪氏の還暦に際し、正祖は華城行幸を計画した。文武官僚と軍事6千人を同行させた巨大な行列。これは、単に還暦を祝う行列ではなかった。当日、正祖は黄金のよろいに、身を包み、馬で移動した。彼は大規模行列によって自分の強い意志を明らかにした。正祖は華城で夜間訓練を実施した。当時の絵を通してその規模を知ることが出来る。正祖の監督下で訓練に臨んだのは、荘勇営兵士だった。
彼らは磨いてきた武芸と整備した部隊の威容を発揮した。正祖は、兵曹判書シムハンジェら老論大臣に訓練を見物させた。

夜間訓練の再現『スウォン華城文化祭』
あちこちで、砲火が破裂し、城壁を囲んだ千人の兵士達がたいまつを掲げた。
「射手は左方に、歩兵は右方に」
正祖は、華城で最も高い西将台で指揮を執った。戦時でもないのに王が黄金のよろいを着て軍を指揮したのだ。史上例のないことだった。
「殿下自ら軍を訓練したー日省録」
正祖が描いていた深い意味は、何だったのか?
「6千人が動員されました。西将台の正祖の指揮の下、午後から訓練を始めたら、数千人の軍隊が夜を徹して訓練する場面が展開されます。こんな場面は外敵への防衛ととらえることも可能ですが、正祖の反対勢力にはたいへんは脅威となったはずです。実際には正祖は政治的効果も考慮していたでしょう」

『トングク大学博物館』
果たして正祖はどんな政治を夢見ていたのか。
正祖が描いた菊の花。絵の片隅に正祖の落款がある。『万川明月主人翁』
正祖は自らをすべての川を照らす月にたとえた。そして臣下を雲に例え、王と民衆の間に雲がかからないのが良い政治だと強調した。

『明月に雲はかなわないー正祖実録』
正祖が夢見たのは王と民衆が直接対話できる政治だった。
「支配する者は王一人でよい。他の臣民は同じ民衆、皆同じ同胞だという気持ちで、一緒に生活するのが良い国だとしたのです。月が照らす小川のような直接的で調和した関係を理想とし、その間に邪悪な臣下が入らない政治を考えました」
しかし、老論たちはそれをとうてい受け入れなかった。
天下同礼
王も士大夫の一員として、臣下と共に、民を治めるべきだとした。
老論大臣たちは絶対君主権を行使する正祖に対抗した。おのをかざし、血書を提出した。王と臣下の対立は極限に達していた。

「君主が高慢に聖人ぶり、臣下を見下しているー正祖実録」
「臣らは、死んでも王の命に従えません」
しかし、軍権を握っている正祖はもう退かなかった。臣下たちに覚悟を決めよと言い放った。
『民の政治のために突き進む』

1800年正祖24年5月30日、ついに決断の時がきた。正祖は臣下に衝撃的な宣言をする。

いわゆる『五晦莚教』だ。
今日の教えは我慢を重ねた末に下すものー正祖実録
思悼世子の死の責任を臣下たちに問い、正祖の改革に反対した老論勢力をえぐり出すという。脅迫にも等しい宣言だった。臣下たちは沈黙を通した。正祖と臣下たちの決別は決定的になった。

5月、最後の日、いわゆる『五晦莚教』による正祖の勝負をかけた一手。
しかし、正祖の思い通りにはいきませんでした。彼は、臣下たちの冷たい態度に憤激し、強い警告を発しましたが、『五晦莚教』発表から一ヶ月後の6月28日、正祖は急逝したのです。あまりにも急だったため、微妙な政治状況から、多くの疑惑を招きました。南人たちの間では、毒殺のうわさも広がりました。改革の夢に燃えた君主、正祖。しかし、彼は結局、夢を果たせなかったのです。

「王君が崩御した日、サムガク山が泣いた」
「稲が白く枯れてしまったー正祖実録」

正祖の死と共に、彼が成し遂げた改革の土台は崩れ去った。荘勇営は解体され、ペクトンスら武士たちは粛清された。君主の下、差別のない世界を夢見た正祖。奴婢制度と庶嫡差別をなくして、民衆のための政治を行った改革君主、正祖の時代は、こうして幕を下ろした。

「君主の重要な任務は、すべての民の面倒を見ることだ。貴族などは面倒見なくてもよいが、小市民たちが、被害を受ける状況を打破する。小市民保護主義を実現するための、政治思想だといえます」

18世紀の朝鮮は、最も躍動的な時代でした。同時に総体的な危機を迎えた時期でした。正祖の表現を借りれば、『病にかかった人のようにー』『気力が衰え、血管が詰まった状態』でした。
国を思い通りに操った臣下たちに囲まれ、正祖は文武の調和を通じて、朝鮮を改革しようとしました。
正祖大王、彼は国家改革のため、自ら武人になった君主でした。




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