新羅、高句麗、百済の時代の遺跡発掘の話。
面白かったのでメモした。
今まで知られていないのがすごい。
栄山江(全羅南道)中流の羅州、永洞里で2005年、様々な形の墓が大量に発掘された。5~6世紀のものと思われる墓には、人骨がほぼ無傷のまま残っていた。
「日本人、中でも九州地方の人と非常によく似ています」
永洞里古墳から発掘された人骨の謎。
王陵に次ぐほど巨大な、7基の封墳があることがわかった。
合計23体分の人骨。
4世紀から6世紀にわたって、作られた封墳内には、40余りの墓がびっしり詰まっていた。何より驚くのは人骨が見つかったことだった。1500年前の人骨がほぼ無傷で大量に発掘されたのは、初のこと。
釜山、東亜大学。
石を積んで遺体が入る部屋とする百済式石室墓が8基。
平たい石で四角い箱型の桝をつくって棺を納める石桝墓も確認された。
一番多かったのは、甕棺墓。
大きい甕を棺に使う甕棺はこれまで28基が確認された。
まっすぐ立てたまま埋葬した直立埋置甕棺もあった。
「普通の古墳には、大きな封墳に石室や石桝が一つずつあります。しかし、このアパート型複合古墳には多葬形式になっています。後ろの封墳の場合、石室が6つも7つもあるのです。そのため、一般的にアパート型複合古墳と呼ぶのです」
百済の中心地だった扶余や公州では、このような様式は見られない。
「資料を調べても百済地域には、口縁がこんな形の土器はありません。付加口縁長頸壺だから…」
副葬品の地域を巡って、学者達の意見は食い違った。
「新羅の付加口縁長頸壺を思わせますね。新羅の影響を受けて、それを模倣してここで作ったのではないか」
「日本の大きい土器ではなく小型土器や小壺によくあるのでは…口縁部よく似ていますね。口の先端部分はそうじゃないけど、似ていると思います」
この地域に関する史録はあまりないので、副葬品は墓の主を探る重要な手がかりとなる。様々な土器類も大量に出土した。
百済だけでなく、新羅や可耶など周辺国の土器も多数あり、活発な交流ぶりがうかがえる。
副葬された鉄剣は被葬者の政治的地位を物語る。
「数キロ先には、栄山江が流れています。栄山江地域に湿地が形成され、やがて農耕地となりました。栄山江の多侍平野はこの一帯でも大きい平野です。この平野を支配管理していた勢力の首長クラスだと思われます」
栄山江流域を拠点に大勢力を形成した永洞里の古代人。彼らは誰だったのか。
百済の石室墓が最も保存状態が良かった。
「完全に白骨化した後、石室内できれいに整理されています。整理して、次の被葬者の空間を確保しています。1世代や2世代で構成された家族墓ではなく、少なくとも3世代、4世代で構成された家族墓と見るのが妥当でしょう」
数世代にわたる多葬は、栄山江流域固有の風習で、あるじは土着勢力だと考えられる。
「現在のところ、栄山江流域の古人骨は、目鼻立ちが真ん中に集まっている傾向があります。目鼻立ちが狭いというのが特徴的で、新羅や可耶の人とは異なる特徴だと思います。肉眼で見ても分かるように、この鼻筋から口までの距離がとても狭いですね。額の部分は逆に広いようです」
栄洞里人骨の特徴は一目瞭然である。朝鮮初期の人骨とは顔立ちが違う。
「顔の目鼻立ちが近寄っているというのが、特徴ですね。そういう特徴をたどっていくと、永洞里の人骨は日本の人、中でも九州地方の人と非常によく似ているのです」
DNA鑑定を中央大学に依頼した。
古人骨のDNA鑑定は難しいので、そのため細胞中に多数あるミトコンドリアDNAを使う。
2号石室の女と1号石桝の男女は母系遺伝子が同じだった。
他の人骨も同じで、母系社会だったことを推測できる。
「分析を試みた5基の墓のうち、実際に分析できた4基の人骨は、母系遺伝子であるミトコンドリアの塩基配列が非常に類似しています。言い換えれば、一つの家系、しかも、一つの母系だと推定できる人骨だという結論をえました」
永洞里人骨を百済、新羅、日本の古人骨の遺伝子と比較した。
標本数は少ないが、驚くべき結果が出た。
「現代人と比較した場合、現代日本人に類似していました」
永洞里人骨は遺伝的に百済や新羅よりも現代日本人に近かった。この結果はどういう事か?
「仮説の一つは、5世紀当時、日本に住んでいた人と、永洞里に住んでいた人は、同じ集団である可能性が高いのです。移住してきたという仮説です。2つ目の仮説は、5世紀に永洞里にいた人が、日本に移住して、かなり大規模に遺伝的変異を残したのではないか。現地集団との交流や結婚を通じて、永洞里の遺伝子を日本列島に残したという可能性もあります」
この地域の土着勢力らしき、永洞里の人骨、遺伝子分析結果は、栄山江流域勢力が韓半島より日本に大きい影響を与えた事を示す。彼らの影響圏はどこまでだったのか。
「百済と新羅、そして可耶よりも、現代日本人に最も遺伝的に近い永洞里古墳の人骨。日本との活発な交流があったという意味です。百済王室が大阪京都など、日本の中央と交流した事実は有名ですが、栄山江流域勢力と日本との関係に関する文献記録は残っていません。栄山江流域と日本はどのような影響を互いに与え合ったのでしょう」
全羅南道、海南部。
韓半島の南端部。
古代から、韓・中・日の交流の拠点だった。
2年前、海南、玉泉面でも永洞里と同時代の古墳が発掘された。平たい石で作った四角い枡に、棺を安置した石桝墓。規模は大きくないが、その副葬品が学会の関心を集めた。
瑞獣形土器。
中でも珍しい形の土器が注目を集めた。龍のような吉兆の動物を形象化した瑞獣形土器という土器が、この地域で初めて出土した。
死者が瑞獣に乗って安らかに天国へ行くことを願って作られた。ところが、海南の瑞獣形土器には、性器を露出した土偶、土で作った人形が乗っている。土偶は新羅の代表的な造形様式だ。
「乗っている土偶の性器を誇張しています。新羅様式の土器、長頸壺や高杯に付随する土偶には、性器を誇張するものが多いのです。このように、粘土で作った土偶を付けている物もよく見られます。つまりこれは新羅様式だと言えます。こういう土器が、海南地域で出土しており、これ以外にも新羅の土器は6世紀にも見られます。海南地域では、他にも、百済系や倭系、可耶系土器も出ており、いろいろな様式の土器が見られます。これは、この海南地域で、潮流を利用した交流があって、海南地域の特性として寄港地の役割を果たした場所であったと思われます」
イモガイ製腕輪。
出土した遺物は国際的だった。イモガイで作った腕輪は、日本南方沖縄に生息するイモガイやスイジガイで作る代表的な日本の特産品だ。このような貝の腕輪は、身分の高い人だけが使えた。が草たちは、萬義塚を国際商人の墓だと見ている。
新羅、可耶、そして日本と交流した国際商人。
波状文土器(可耶系)。
彼らも栄山江流域勢力の一部だった。
鳥足文土器。
萬義塚で出土した鳥足文土器は栄山江流域固有の土器だ。踏んで通ったように鳥の足跡が鮮明だ。
「百済系統の遺物よりも、そうでない遺物の方が多く出ていますね。遺物で見る限り、栄山江流域が百済の一部だったと見るには、多少無理があると思われます。勿論百済戸の交流もありますが、可耶や倭とより活発に交流を行ったのでしょう」
鳴梁海峡。
イ・スンジの鳴梁大捷で有名。彼は、この潮流を利用して大勝した。
海南・鳴梁(海鳴り)。
特に、海南の鳴梁は、潮流が速い上に方向が変わりやすく、潮時を知らなければ通れない。栄山江勢力は複雑な海路を掌握して、強力な海商勢力となったようだ。
「百済が、倭と通交する際に、必ず通過しなければならない地域だったので、彼らの協力なしでは航海することが難しかったでしょう。そういう意味で、彼らはある種の道案内の役割を担ったと思います」
栄山江勢力の影響圏は、どこまで拡大したのか。
現代も韓国と活発に交流している日本の福岡。地理的条件で古代から、栄山江流域との交流が活発だった。
福岡の番塚古墳。
ここから、百済系土器が多数出土したが、その土器は、百済系というより、栄山江流域土着勢力の物だった。
土器表面にくっきり刻まれた、鳥の足跡。栄山江流域の鳥足文土器だ。
「この栄山江流域の特徴的な物は、馬韓系統の土器なんです。鳥の足跡を刻んだ鳥足文土器が日本で出土する馬足は、まず間違いなく栄山江流域から渡ってきた物だと言えます」
1985年に発掘された日本・奈良の藤ノ木古墳。造成時期は、6世紀末と推定される。 古墳からは、金銅製履が、出土した。華やかに飾られた金銅製履で目を引くのは、魚形飾り。初めて出土し、日本では、独創的遺物だと、大騒ぎになった。 ところが、十数年後の1990年代半ば、韓半島でも魚形飾りの金銅製履が発掘された。
全羅南道羅州市伏岩里古墳群。
永洞里と同じく、様々な墓制のアパート型古墳だ。
金銅製履は、甕棺を安置した石室にあった。
履の形と魚形飾りは、藤ノ木古墳の物とそっくりである。調査の結果、伏岩里の金銅製履は、藤ノ木の物より、100年ほど早いことが判明した。日本の物に比べて、飾りが少ない伏岩里の履。魚の形は、リアルで精巧だ。
伏岩里古墳の規模と副葬品の豪華さから、学者たちは、永洞里より大きい勢力と見ている。伏岩里では、甕棺を石枡に埋めた墓も発見された。
甕棺墓。
同じ様式の墓が日本でも確認された。
日本・福岡県・新町遺跡。
鳥足文土器と永洞里地域特有のかまどが注目された。この古墳も様々な墓制が混じっている。石桝の中に、甕棺を入れているのは、伏岩里と全く同じだ。
日本で続々と現れる栄山江勢力の遺跡は、彼らの影響圏の広さを物語る。彼らのDNAが現代日本人に近いのは当然かもしれない。
「3~4世紀頃に、栄山江流域の人々が日本の九州や大阪に大勢渡りました。形質医学的に見た場合、韓半島南部地域と、日本の九州や大阪地域は密接しているので、こういう結果になったのでしょう」
「栄山江流域勢力が旺盛な海洋活動をした様々な痕跡が見えます。その活動は、単純に物流があったということや、無形の文化交流があったということだけではありません。人的な交流も十分にあったと考えられます。日本にある栄山江流域系統の遺跡や遺物を見ると、栄山江流域の人々が日本に渡って定住したとも考えられます。彼らが現代日本人を形成する形質に影響を与えたというように、推定することも可能です」
これまでに、発掘された遺跡は、栄山江勢力が九州・福岡の他に、日本の中央だった奈良・大阪とも交流したことを示す。
百済を中心に記述された韓半島と日本の交流史は、その前に文化を伝えた栄山江勢力を中心に見直すべきではないだろうか。
永洞里と伏岩里の両アパート型複合古墳は、共に3世紀の甕棺古墳から始まった墓です。この甕棺は、不思議なことに南部の生命水である栄山江流域から集中的に出土し、甕棺古墳勢力と呼ばれています。彼らはどのように百済と異なる文化を培ったのでしょう。
羅州文化財研究所は昨年、大型甕棺の再現作業を行った。
土に砂を混ぜて、強度を高め、棒状にした粘土を一段ずつ重ね、1500年前の制作方式そのままで成形した。
伏岩里近くで発掘された窯跡を基に、4メートルの窯も作った。
甕棺の乾燥に二ヶ月を要した。重い甕棺を窯まで運ぶため、地面に砂を敷いて転がし、破損を防止した。1日24時間を一週間、10トン以上の薪を使った。しかし、しばらく後、ひびが入って甕棺は割れた。1500年前の古代人はどのように甕棺を作ったのか
「一つの甕棺を作るのに、十ヶ月から十二ヶ月はかかったと思います。そうだとすれば、彼ら職人集団を管理統制する勢力がいたでしょう。この栄山江流域を掌握して統率したであろう部族長ないしは、国家成立直前の段階の勢力ですね。そのような有力な勢力が、確実に存在したと思います」
栄山江流域で発掘された甕棺は、500余り。
羅州市藩南面チャンソン村。
甕棺の発掘は今も続いている。大きな甕棺の制作には時間を要するので、甕棺自体が権威の象徴であった。大きさの異なる一対の甕を棺に用いた甕棺。彼らはなぜ甕棺にこだわったのか。
「二つの甕を合わせると卵の形になるわけです。その卵の中に入れたのです。元々人が、卵から生まれたと考えて、卵に遺体を入れることによって、復活を願ったのでしょう。再生の意味があったと思います」
時に子供の埋葬に小さい甕を使うケースはあるが、首長休の埋葬に大型甕棺を使うのは、栄山江一帯だけだ。5~6世紀は甕棺の最盛期で、2メートル超の大型甕棺も出土した。
「甕棺墓の場合、副葬品はそれほど派手ではありません。初期には鉄製の短刀とか、数点程度の土器や玉などが出土しました。5世紀に至ってようやく長い剣のような武器類が出てきます」
この頃から、甕棺古墳勢力は政治的にも強力になっていく。
百済王室で使っていた物に次ぐ華麗な金銅冠や金銅製履、環頭大刀が登場する。
金銅冠・国宝第295号。
甕棺古墳の栄山江流域勢力は国家形成前の連合体段階まで、政治力を培ったものと学者達は見ている。では、なぜ彼らは、栄山江流域を中心に成長したのか。
甕棺古墳発掘地は、栄山江流域の平野地帯に集中する。しかし、彼らは、農業より海上交易を中心とする商業勢力だった。学者達は、百済王稜に次ぐ大きな甕棺古墳の封墳を海商勢力の痕跡とも見ている。
「栄山江流域にある甕棺古墳の立地条件を考えると、ほとんどは川辺にあるか、海を見下ろせる小高い丘にあります。なので川や海から見渡した時に、大きな封墳はすぐ視界に入る立地条件にありました。どういう意味かというと、埋められた人たちが、海や川で水上活動を活発にしていたので、封墳が標識でもあったのです」
甕棺勢力が栄山江流域を拠点にしたのは、栄山江が韓半島最大の内陸水路だったからだ。
羅州船の破片・高麗時代。
去る2006年、栄山江流域で、高麗時代と思われる木製片が発掘された。
「発掘された木船の部材です。2006年、栄山江のトゥング浦付近で、発見された高麗時代初期の船舶の破片です」
我が国三度目の発見となる高麗時代の船片。
7つの破片を収拾したが、破片の大きさから推測するとおよそ200トンの大船となる。
「船の底板と外枠を連結する部分は、L字形の構造になっています。底板と外枠、そして縦に通す材木の大きさから、推定では長さ32メートル~42メートル、100~200トンの大船です。高麗時代にもこういう大船の記録があります。羅州には、栄山倉があって、漕倉がありました」
米1000石を積載できた大船の羅州船は、栄山江流域で生産した米を運んだ。栄山江河口の木浦港から、羅州栄山浦まで。ほんの100年前まで、栄山江は海と陸地を結ぶ韓国最大の内陸水路だった。
「この通り、沖積堆地が形成されています。数千年、数万年、川が流れる間に、どんどん埋まってきたわけです。大昔は、今の6倍ぐらい川幅があったようです」
今は沖積平野となり、昔の栄山江の痕跡は見つけにくい。古代の水域は、現在と比べて6倍ほど広かったと推定できる。まさに海のように広い川だった。
「帆を上げて船が行くと、速い時には、20ノットまででます。かなり速いですよ、当時としての水運は、現在の高速道路のようなものです。栄山江流域で、甕棺古墳を作った人々が、水運を掌握して、水上活動を活発に行ったのです。おそらく日本列島や中国大陸などと活発に交易したのではないでしょうか」
栄山江と水路でつながる西・南海の海を掌握した栄山江勢力。1500年間眠っていた永洞里人骨の発掘により、韓半島、西南海地域の古代史は、改めて注目され始めた。
1500年前、海洋時代を切り開いた栄山江流域勢力、彼らは海上交易を通じて、多様な文化を受容しては伝えた開放的な勢力でした。1500年前の人骨が現代日本人に近いという事実は、彼らの影響力が広範囲だったことを示唆します。1500年の眠りから覚めた古代人と共に、韓半島の海洋交流史は書き直されるべきでしょう。
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