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「女人天下」とミン妃

女人天下を見始めた。

すごくおもしろい!!

「王と私」の監督と脚本家のコンビだそうだ。

零下10度の池につかって、撮影するシーンもあったりする。

第1話からめちゃめちゃ面白い。

テ・ジョヨンのような、祖国愛のような話ではないけれども、恨み、政治的な陰謀、数奇な運命というか、ストーリーのとんでもない波乱万丈、などなど、朝鮮王朝の政治ドラマは、すごい。

こういうのを見ると、国連総長がなぜ韓国人なのか、わかったような気がする。

日本人は、のんびりしすぎている。。。

韓国人のほうが頭がいいとまでは、思わないが、少なくとも、お人よしの日本人は、赤子の手をひねるようなものだろう。

先日のミン妃暗殺の犯人の子孫が韓国へ謝罪に行ったという報道を、テレビ朝日系列のニュースステーションで見た。

そのときのことを、ちょこっとブログに書いたが、しかし、後になって考えると、なんか変だと思う。

女官が12人ミン妃の周りを取り囲んだという。

犯人は、新聞記者と日本語教師だったと、ニュースステーションで言っていた。

しかし、そういう人たちが、日本刀を持っているのだろうか。

護衛兵とか、命に代えても王や王妃を守る内侍もいるような宮中で、単なる民間人が王妃を殺害できるのだろうか。

どうもおかしい気がする。

角田房子さんの「ミン妃暗殺」を昔読んだのだが、あの本を捏造だと非難する人たちがいるという話をどこかで読んだ。

ミン妃暗殺では、何とか大佐というような、日本軍の人が関係しているように書いてあったと思う。

軍人なら、日本刀を持っていても、暗殺していてもおかしくないけれども。

テレビ朝日の番組では、なんと新聞記者と日本語教師が暗殺犯人だという。

なんか、変。

話が合わない。

もし、テレビ朝日が正しいとすると、角田房子さんの本は正しくない。

しかし、ちょっと無理っぽい。


女人天下を調べているときに、面白いブログ記事を見つけた。


韓国ドラマストーリー
は、すごく詳しいストーリーが書いてあって、前から時々見たことがある。

その中に、ミン妃をドラマにしたものがあって、解説が詳しく出ていた。

せっかくなので、引用させていただきます。

韓国ドラマ「明成皇后」 引用

■韓国ドラマ『明成(ミョンソン)皇后』(全124話)2001年

■韓国ドラマ『明成(ミョンソン)皇后』(全124話)2001年
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INTRODUCTION

はじめに --韓国の歴史歪曲検証:閔妃の真実「世紀の悪女伝説」--

  閔妃と言えば、韓国では「明成皇后」としてその名が伝わる李朝後期の高宗の后である。日本でも中央日報を始め、韓国系新聞の日本語サイトを見ている人には おなじみの名前であろう。即ち、最近この閔妃を題材にした「明成皇后」なるテレビドラマが韓国で話題となったのである。実際、閔妃と言えば韓国では、悪辣 なる日帝と戦った悲劇の王妃として持てはやされているのが現状である。彼女の実際の姿は後述するが、何故このように閔妃が韓国で持てはやされるのであろう か?。先に結末を言うようで申し訳ないが、この閔妃は日本の三浦公使の指揮の元、日本の公使館員、領事館員、警官などが動員され1895年10月8日、殺 害されたとある。もう後は続ける必要がないだろう。悪辣なる日帝は、日本に逆らう閔妃の暗殺を企て、宮殿を襲い彼女を惨殺してしまったのである。まさに悲 劇の王妃。朝鮮国民は涙を流してその死に哀悼を捧げるのであった。と、まあこんなところが韓国に伝わる閔妃の生涯である。しかも日本の進歩的知識人と韓国 で称される作家や研究家達も同様な形で閔妃を「悲劇の王妃」として持ち上げているのである。
 確かに、「暗殺」は悲劇であったかも知れない。だ が、この閔妃なる女性は本当に韓国で評されるような聖女然とした人物であったのだろうか?。実は、李朝後期の知識人達は、閔妃について「悪女」と評してい たのである。言葉は悪いが、少なくとも彼女の政治家としての面を見れば、この評価は決して間違っていない。それでは閔妃の真実の姿を見ていこう。
  当時の朝鮮では大院君が摂政として朝鮮国内の政治を握っていた。息子の高宗は王位についてはいたが、実際に政務を執ることは殆どなかった。その高宗に后を 娶らせようとしていた大院君は、妻の閔氏の実家の紹介で、兄弟も姉妹もいない15歳の閨秀(後の閔妃)のことを知った。閔妃は困窮した家庭の育ちで、8歳 で父母と死別している。しかし、極めて頭が良いとの評判だったという。そこで大院君はこの親も兄弟もない閔妃を高宗の后に決め、王妃とした。閔妃は王妃に なって宮中に入ったものの、王妃とは名ばかりの存在だった。夫の高宗が愛妾李氏を溺愛し、ついには李氏との間に完和君と命名された男子を作ることになっ た。しかも、愛妾であるはずの李氏が出産したことに大院君が怒るどころか、満足する姿を見て不満と嫉妬を爆発させた。これをきっかけに閔妃は大院君への策 謀を張り巡らし、その追い落としを図っていくのである。
 大院君の閔妃に対して無警戒ぶりに閔妃は乗じA大院君の反対勢力を糾合して、自分の勢力 を構築するかたわら、夫の高宗の愛を独占しようと、あらゆる努力を傾けたのである。そして、1874年に、男子を出産した。後の純宗王となった王子拓であ る。大院君は、ようやく閔妃の・戚族一派が策動しているのを見抜き、李氏の子である完和君が長男であったことから、世子にしようとしたのである。ここから 閔妃と大院君との闘争が激化し始めた。閔妃は側近の李裕之を北京に派遣して、清朝から拓を嫡子として承認してもらうことに成功している。閔妃は、摂政の大 院君から嫌われて権力の座から遠ざけられていたあらゆる階層と連絡をとり、不満勢力を抱き込んだ。自分を中心とする政治勢力を形成したうえで、儒生の崔益 鉉を煽動して、大院君の攘夷鎖国政策を弾劾させた。崔益鉉は国王に上訴した。閔妃と大院君との溝は日増しに深まり、爆発寸前に追った。だが、ここでは国王 の意志が絶対だった。国王を掌中に入れていたのは閔妃のほうだった。1873年、大院君は9年余にわたった摂政の座を降りて、野に下ることを強いられた。 閔妃の勝利であった。
 これより高宗の親政となるのだが、相変わらず酒と女に溺れる高宗に代わり、閔妃の独裁政治が始まったのである。閔妃一族が 実験を握り、李朝政権の隅々まで閔妃の一族によって埋め尽くされ李朝後期の腐敗と汚職にまみれた政治がここから始まったのである。閔妃は王子拓を世子とす るために莫大な資金を費やした。そのうえ、閔妃は世子の健康と王室の安寧を祈るために、「巫堂ノリ」を毎日行なわせた。「巫堂ノリ」は巫女たちが狂ったよ うに踊り、祈る呪術である。そのかたわら、金剛山の1万2000の峰ごとに、一峰あたり1000両の現金と、1石の米と1疋の織物を寄進した。つまり、合 計して1200万両の現金と、1万2000石の白米、織物1万2000疋を布施したことになる。当時の李朝の国家財政は、150万両、米20万石、織布 2000疋を備蓄していたにすぎなかったから、閔妃が金剛山に供養した額は、国庫の6倍以上に当たるもので、とうてい耐えうるものでなかった。これは法外 な浪費だった。宮廷の重職者たちは、民衆から搾取して、競って閔妃に賄賂を贈り、王妃に媚びて「巫堂ノリ」に積極的に参加し、巫女たちとともに踊った。閔 妃は、狂気に満ちた宮廷に君臨する最悪の女王だったのだ。
 また、独裁政治家としての閔妃の行動は常軌を逸していた。ある時は清国に接近し、ある 時は日本に擦り寄り、親清かと思えば、親日に変わり、日本を捨てると、ロシアと結んだ。当時のロシアは南の不凍港を求めて周辺諸国への侵攻を勧めており、 言うなればオオカミの前にウサギが単身乗り込んでいくようなものである。またこのロシアへの接近が、当時ロシアを仮想敵国としていた日本にとってどれほど 脅威また恐怖であったか言うべくもないだろう。一歩間違えれば、日本の目と鼻の先にロシア軍が大挙して押し寄せて来かねない状況だったのだ。確かに日本の 実力行使は誉められたものではない。だが、それは単に日本に反抗した王妃を殺したのではなく、日本に脅威をもたらし朝鮮を貧困のどん底においやった悪女閔 妃を殺したのである。その手段は非難されるべきだが、行為自体はやむを得ないものであったと考える。
 庶民の生活を思いやることが全くなかったの は、李朝の支配者の通弊であったとしても、高宗の実父であり、恩人であった大院君を追放し、清国の袁世凱をそそのかして逮捕させるなど、智謀家ではあった が、その行ないは倫理に大きくもとったものだった。閔妃の生涯は「恩を仇で返す」生涯であった。結局、高宗も閔妃も大院君も、ただ権力を維持するために、 その時々の力がある外国と結んで利用し政治をもてあそんだに過ぎなかったのだろう。閔妃は義父に背恩したうえに、民衆を塗炭の苦しみにあわせ、国費を浪費 して国を滅ぼしたおぞましい女である。
 長くなったが、以上が閔妃の本当の姿であり、李朝後期の知識人達が「悪女」と呼んだ女の生涯である。現代 の韓国人達が自らを偽り、歴史を歪曲し、閔妃を悲劇の王妃に仕立て上げる事自体は韓国内だけなら彼らの勝手である。だが、その歪曲された閔妃の姿を世界に 向けて発信しようとするのは、あまりにも歴史を馬鹿にした態度だと言わざるを得ないのである。



ドラマ内容紹介

年代表 企画意図
明成皇后 年表歴 史とは、後に立って過去を振り返る所作である。また、歴史というものは、特定の人間によってなされる認識のひとつに過ぎず、言うなれば人間ごとに“歴史” が存在しうるのだ。“明成皇后”は、ある意味、朝鮮近代史においてもっとも象徴的な人物だと言えよう。俗に言う“閔妃”という呼称は、“明成皇后”を卑下 した呼び方で、当時の日本帝国主義が、植民地史観に基づいて付けたものだ。
“明成皇后”に関する多くの否定的な認識は、帝国主義の日本政府が、明 成皇后を弑逆して朝鮮を強制的に占領した事実を正当化するために作り出した、歴史の捏造と偽造に起因するものが大部分を占める。「権力に執着した女」、 「国家の利益を犠牲にして、親族の利益を図った女」、「闘争心と気まぐれにまみれた女」、これらはすべて、明成皇后を弑逆した当時の日本の名分である。衰 弱した朝鮮王朝、侵略のツメを隠そうともしない欧米列強と日本の野心の前に、朝鮮の独立を引き出した「鉄の女=明成皇后」。彼女の偉大さは、日本の初代総 理大臣=伊藤博文が漏らした、「朝鮮を侵略するためには朝鮮の国母を弑逆するほかない」という嘆息に含蓄されている。この時代、明成皇后と比肩する人物と いえば、大院君だ。外戚とそれを支持する政治家たちにより、失墜した王室を再び立て直し、強固な国家再建のため、改革の先鋒にたった大院君。そして再び王 室を守るために保守に回った大院君。彼の没落の過程は、朝鮮王朝の最後の姿でもある。
※ 閔妃(明成皇后)殺害事件(乙未事変)
朝 鮮王朝の実権を握り、排日・親露政策をとっていた閔妃に対し、日本公使の三浦梧楼は、閔妃の政敵である大院君を擁して親日政権を作ろうと画策。1895年 10月8日早朝、日本軍守備隊、警察官らによる一団が王宮の景福宮を襲撃し、閔妃を斬殺した。親日政権が作られたものの、事件の一部始終を宮廷内にいた米 国人、ロシア人らに目撃されており、国際的な非難を浴びた。日本政府は三浦ら関係者を帰国させ、裁判にかけたが、証拠不十分で免訴、釈放となった。親日政 権は民衆の反日義兵闘争でつぶれ、翌96年には親露派内閣が誕生した。
明成皇后と大院君のドラマ
宿 命的なふたりの人物の出会いと葛藤・破局を中心にし、些少な歴史的事件をあえて排除した。事件や人物を羅列するだけの歴史ドラマが陥りがちな、教科書的な 意味しか持たないドラマになることを避けるためには、主人公を中心とした強力なストーリー展開が必要だ。明成皇后と大院君の性格を対比がストーリーの根幹 をなす。
正史と俗説の適切な混合
正史を追うことを基本とするが、俗説を適切につないで、明成皇后と大院君の人間的な面をメインに描く。
歴史的な問題に対する活用
『明 成皇后』はミュージカルにもなったが、この作品が若い世代からも良い反応を得ることに成功したのは、日本統治期を敗亡の歴史ではなく成功の歴史に変えたこ とにある。明成皇后の生涯を個人的な野心に帰結させるのは日本の帝国主義の植民地史観に根ざすものだ。明成皇后の華麗な外交術、肯定的な意味での権謀術 数、時代を見通す現実意識など、精密に描いてゆく。
事件と人物の立体的な構想
編年体のストーリー展開を排除し、明成皇后と大院君の葛藤と対立を効果的に追加するための立体的な構想を試みた。
恋愛ドラマの要素を加える
堅苦しく難解になりがちな歴史ドラマの結合を、新式の西洋の文物である一夫一婦制に触れた明成皇后が、高宗を取り巻く女たちに対して感じる嫉妬と、それによる事件なども盛り込まれている。

時代背景

列強各国の事情
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列 強各国の事情 15世紀中ごろから始まった大航海時代を経てヨーロッパ文明は、インド・アジア大陸やアメリカ大陸に新たな地平線を“発見”し、いつしかそれは「植民地」 という新しい“興産”を得るに至った。すでにクリミア戦争前から列強として君臨していたイギリス、ドイツ、フランス、ロシアに、南北戦争という国を分割し ての内戦を克服した新興の大国アメリカを加えた列強諸国は、たちまちのうちに殖民ビジネスに明け暮れるようになり、ついには西洋世界の真裏に当たる極東地 域にまで、“開発”の手を入れ始めた―。これが19世紀、いわゆる「近代」のハイライトたる“帝国主義”の全盛期の世界情勢である。

日本の事情
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1853 年7月、ミシシッピ号を旗艦とする4隻の艦隊が浦賀に入港した。提督の名前はマシュー・カルブレース・ペリー。世に言う「黒船来航」である。ペリーの目的 はただひとつ、「日本を開国せしめる」こと。ペリーはアメリカ合衆国大統領フィルモアの親書を携えていたが、とりもなおさずこれは実質上、日本に対する近 代国際法秩序参加への招待状であると同時に、殖民基地化を甘受するや否やを迫る最後通牒でもあった。これに対して江戸幕府は開国を受諾。そして1868年 の改元を前後しての内戦の末、「明治維新」という一大改革を経て、12世紀から続いた二極政治の歴史に幕を下ろし立憲君主制の下での近代化を、猛烈な勢い で開始した。列強の東アジア政策のひとつのファクターとしてとりこまれた日本は、鎖国によって保たれてきた対外的な平和が一転、欧米列強諸国の間に挟まれ る形となった。明治新政府は「富国強兵」のスローガンのもと国力増進を督励した。このとき日本は、史上ほぼ初めて、明確な仮想敵国を想定しての長期的かつ 現実的な外交戦略に立脚した国造りをすることになる。その仮想敵国とは、後に日露戦争で近代初の総力戦を繰り広げることとなるロシア帝国。北の極限近いと ころに広大な領土を持つが、冬になると港という港がことごとく氷に閉ざされ、港湾の利用はひどく制限され、漁業・商業への不利益もさることながら、とりわ け海軍の運用には致命的な弱点を抱えることとなった。「ならば真冬でも凍らない南方の港に進出すればよい」―。冬になっても凍らない不凍港を求めて、中国 大陸東北部への南下を目指す帝政ロシアは、極東に不気味な影を落としつつあった。

清の事情
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清 は、東アジアにおいて圧倒的に広大な領土と多くの冊封国をもった大帝国で、たいへんに魅力的な領域でありながら、辛くも列強の支配を免れていた。列強は清 を「眠れる獅子」としてその国力を非常に警戒しており、また清も列強諸国を自国の冊封国(自治領)として認識することで没交渉となることを避け、とりあえ ずの均衡が保たれていた。しかしながら、アヘン戦争、アロー戦争とイギリスに負け、北京まで攻め入れられた清国政府は、香港の割譲、天津の開港などを決め る南京条約、北京条約に調印。半植民地化されたも同然となり、国際的に面目を保つのが難しい状態になっていた。もっとも、清国の内情自体、切実な様相だっ た。もともと少数民族である満州族が、漢民族の支配中枢のトップを押さえることで中国全体を統治する、という複雑な政治体制をとっていただけに、言語や制 度の面で従来の漢民族の文化を踏襲しても、二百数十年の歴史が生んだ歪みから免れることはできなかった。官吏は私服を肥やして政治を腐敗させ、当時はまだ 民族主義の産声こそ上がってはいなかったものの異民族に出仕する漢民族軍人たちのモラール(士気)は甚だ低く、その実は「張子の虎」であったことが後に日 清戦争によって露呈するのだが、旧体制にこだわる西太后を中心とした保守勢力はいわゆる「近代化」を拒否し続け、しまいには辛亥革命による滅亡を迎え、以 降、中国大陸は長きにわたる戦乱を余儀なくされるのであった。

朝鮮の事情 - 王族と外戚、大院君の誤算
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500 年にわたる安寧を享受してきた朝鮮王朝だったが、長期にわたる王朝の宿命とでも言おうか、王族は私腹を肥やそうとする外戚により、その統治権が脅かされる ことしばしばであった。興宣大院(李ハウン、通称「大院君」)は当初、王族に生まれたにもかかわらず、安東金氏をはじめとする外戚から冷遇を受けていた が、1863年、息子(李熙)が第26代国王(高宗)に即位するや摂政として政権を掌握。小作人制度の見直しや官制度改革などにより構造改革を行い、外戚 勢力の一掃と有能な人材の登用につとめた。その後も攘夷派として鎖国政策を断行。しかし、外国を牽制するための砲台の敷設や景福宮重建工事など大規模な土 木工事を相次いで敢行し、そのたびに高額貨幣の乱発および増税を頻繁に行ったため、朝鮮の経済基盤は疲弊の一途を辿った。一方、幼かった国王も長じて 1886年に妃を娶った。これが後の世に言う明成皇后である。興宣大院は、外戚として最も影響力の弱い閔氏から妃を取ることで王族の権力の強化を目指した が、国王が成人し、親政に乗り出すにつれて次第に明成皇后を筆頭とする閔氏との対立を深めることになる。

すれちがい
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こ の時期、朝鮮は、ひとつの重要なシグナルを見逃してしまう。1868年、明治新政府は新政権樹立の通知と修好関係樹立を提議する国書を、当時江戸幕府と朝 鮮の公益の唯一のチャンネルであった対馬を通じて朝鮮に送った。しかし、従来の政権交代の国書と違い、政治体制が天皇親政に移行したために、国書の中には 「皇」「勅」という文字が使われていたのがそもそもの齟齬の原因であった。当時の東アジアおける国際関係とは、とりもなおさず、中原文明から連綿と続いて きた中華帝国に「冊封」という形で認証を得るシステムにほかならなかった。つまり、形式的には中国皇帝の庇護下にあるという前提の下で、諸国の相互の信頼 関係が成り立っていたのである。その理屈で言えば、中国の皇帝、当時ならば清の皇帝以外はすべて「王」の立場でなければならず、「皇」「勅」などといった 文字を王の王たる皇帝以外がほしいままにするのは、東アジアの国際儀礼にそぐわないことになる。よって朝鮮は、明治新政府を、否定した。列強が近代国際法 の適応圏を東アジアに伸張し、日本がすでに国際法による新しい国際秩序に参加している事実を、朝鮮の宮廷はどれだけの確度を持って把握していたのかは推測 の域を出ないが、当時の朝鮮が内紛に悩まされ、国際事情に冷静な判断と十分な対処ができなかったことは、後の歴史に鑑みて、かえすがえす残念というほかな い。

明成皇后と「朝鮮」の屈辱
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お よそ、王権の末期がそうであるように、国王・李熙の興味の対象は専ら酒色にあり、政(まつりごと)には無関心だった。明成皇后はそんな夫に代わって国政に 深く関わることを余儀なくされる。日露清らを中心とした列強各国の満州、遼東半島および朝鮮半島への利権争いが激化する中、親清政策を軸に日英を牽制する ための親露路線、そして宮廷内の大院君ら対抗勢力との闘争など、「朝鮮」を守るため中に外に、まさに八面六臂の活躍を見せた。しかし力及ばす、江華島事 件、甲午農民戦争、日清戦争を通じて情勢は日本に有利に傾き、明成皇后は景福宮にて暗殺されてしまう。1897年、朝鮮は日本の保護国となり、国名も「大 韓帝国」へと変更。1910年には伊藤博文暗殺を機に日本国内の世論が急速に韓国併合へと傾き、ついに大韓帝国は日本に合併される。最後の大韓帝国皇帝隆 煕は、大日本帝国下で「李王」に封じられる屈辱を甘受することとなる―。

当時の朝鮮
大院君の政事
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1863 年 12月、哲宗の死没後、趙(チョ)大妃はイ・ハウンの次男命福(ミョンボク)を世子として翼宗の後を継がせ、自らが摂政の座に就いた。そして興宣君イ・ハ ウンに興宣大院君の称号を与え、摂政の大権を彼に委任した。こうして興宣大院君は高宗に代わって後の 10年間、権力を握り自分の意のままに政事を操るようになる。世間では出世した後の彼を「大院位大監」と呼び, 近年は「興宣大院君」と呼ぶ。権力の最盛期には「大院位大監の言付け」だと言えば 「飛ぶ鳥をも落とす」と言われる程で、彼の一言で「朝鮮全土の山川草木が震える」と言われた。また、興宣君には秀でた才能が一つあった。それは蘭の写生の 腕前だった。 彼が描いた蘭の絵画を、彼の号の「石坡」を取った「石坡蘭」と呼ばれる。石坡蘭は閔泳翊の蘭と共に、その時代の蘭画の双壁を成す。摂政の権限を委任された 興宣大院君は最初に、安東金氏の政治勢力を駆逐して、衰弱した王権を取り戻し、朝鮮に迫る外国の勢力に立ち向かうための果敢な改革政策を推進する。彼は、 党色と門閥を越えて人材を平等に登用し、党争の本拠地となった書院を撤廃する一方、苛斂誅求が日常茶飯事で走狗と転落した役人を処罰し、両班と豪族が免除 されていた租税を徹底的に調査して、国家財政をあてた。

書院を撤廃
朝 鮮朝廷500年間の政府施策の中で、平民の胸のつかえを取ることで彼らの大きな支持を得る一方、腐敗した儒者の肝を冷やした代表的な事例が、大院君の書院 撤廃だった。書院は元々、郷校と同じように先賢の奉仕と学問の奨励を目的に設立された教育機関だった。違いは郷校が国立機関で書院は私立機関だったという 点だった。書院は優れた学者を排出して学問発展にも大きく寄与した。それにより、多くの土地と奴婢を下賜され、税金と労役の免除という特権まで受けた。し かし歳月を経ながら本来の性格が転化した。地方儒者の勢力の基盤でもあり、同時に党争の巣窟になっていった。労役を免れようとする者らも寄り集まった。さ らに様々な理由で民を搾取した。書院はいつの間に、盗賊の巣窟に変わっていた。勢力派閥の支持基盤ではなかったとしても、国家の秩序を確立するうえで、書 院は撤退されるべきだった。しかし、儒家の先賢を祀っている書院に手を出すことなど、誰ができるだろうか。歴代の国王もこれを奨励していたではないか。し かし大院君は刀を抜き、これを果敢に振り下ろした。大院君は全国 600箇所の書院のうち47箇所だけを残し、書院の儒生たちを追い出した。それまで放縦に特権をカサに着ていた儒者と士族たちにとっては寝耳に水だった。 彼らにとって大院君は閻魔大王のようだった。大院君がかくも大胆な改革を断行した内情を鑑みると、それは国家経済のためでもあった。書院が不法に占有した 土地と奴婢を差し押さえ、労役を逃れた人々を析出するという目的もあった。書院撤廃の結果、多くの土地と奴婢を取り返し、国家の財政も拡充された。しかし 儒者の勢力と影響力まで消えてはいなかった。地方儒生と両班が大院君の措置に対して恨みをたぎらせていた。彼らこそ、大院君の行く手に立ちふさがる壁だっ た。

洋擾
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[辛未洋擾] [丙寅洋擾]

丙寅邪獄は辛酉邪獄、己亥邪獄と共に三大邪獄と言われているが、その中でも丙寅邪獄が最も悲惨な事変だった。大院君を刺激して、カトリック教徒に対する迫害を加重させた事件があった。それはオッペルト事件と二度の洋擾だった。
◎辛未洋擾
1866 年8月、英国国教会宣教師兼通訳トーマスら英米系5人、中国人13人、マレー人3人の計21名の非戦闘員のみが乗船する蒸気帆船シャーマン号は、イギリス 商社と契約し大同江を遡行中、干潮で動けなくなったところを襲撃され乗組員21名全員が殺害された。1871年、米海軍はこの事件の賠償と朝鮮開国を要求 するべく、軍艦を朝鮮に派遣。江華島沿岸に接近した時、朝鮮軍の要塞から砲撃された為、交戦状態に突入。海兵隊が江華島に上陸し、砲台の一部を占領した。
◎丙寅洋擾
1866 年、大院君がキリスト教禁止令を出しキリスト教徒弾圧(丙寅邪獄)。この際、フランス人宣教師9人を含む宣教師らを処刑。1886年10月、これに対する 報復としてフランス軍は仁川近くの江華島を攻撃した。その後も6年間に約8,000人のキリスト教信者が処刑されたとされる。

オッペルト
上 海の商人だったドイツ人オッペルトは、朝鮮と通商を行えば一攫千金を得られると考え、 2度にわたって(1866年)来航して、地方官庁に通商の意思を表明し、国王との面会まで要求したが、いずれも断られた。それから 2年後(1868年)、 オッペルトは3度目の航海を計画して 680トンのチャイナ号を借り、5月10日に約130人の乗組員を率いて忠清道の海岸(徳山郡九萬浦)に上陸した。乗組員の中には韓国人カトリック信者の 崔善一(チェ・ソンイル)と上海のアメリカ領事館通訳を勤めたジェンキンスもいた。オッペルトらは現地住民にロシア兵だと偽り、徳山軍煬を襲って武器を奪 い、建物を壊した。そして深夜になると、伽洞に行きある墓を掘り始めた。それは大院君の父, 南延君の墓だった。驚いた徳山郡首と衙前、軍民たちが飛びかかって制止したが、銃器で武装した彼らに対抗する術はなかった。幸いにも南延君の墓壙は岩のよ うに固かった。シャベルも入らずつるはしも跳ね返るばかりだったため、オッペルトらは盗掘をあきらめて逃げ出した。事態を聞いた大院君の怒りは心頭に達し た。外国人を探し出して撲滅せよという厳命を下し、カトリック教徒たちが内通したと見て、彼らの捜索と処断を命じた。カトリック教徒たちは再び血を浴びる ような迫害に見舞われたのである。カトリック信者に対するこのような迫害によって、フランス人の神父 9名が命を落とし、フランスはその仕返しとして 1866年 10月軍艦 7隻に総兵力 1千人を上船させて江華島を占領した。朝鮮軍は江華島を取り返す計画を練り彼らを攻撃したが、火力が足りずに失敗した。しかし済州の牧師である梁憲洙(ヤ ン・ホンス)の戦略により鼎足山城での戦いで勝利し、フランス軍を撃退した。この事件を「丙寅の役」と言う。

丙寅の役
カ トリック教徒に対する迫害の中、リデル宣教師は朝鮮を脱出することに成功する。彼は天津に行き、フランスの極東艦隊司令官であるローズ提督に、朝鮮でのカ トリック教徒に対する迫害を知らせる。艦隊を出動して、朝鮮に残っている宣教師のフェロン、カレとカトリック教徒を救出してほしいと要請した。ローズは直 ちに、北京駐在のフランス代理公使ベルヌーにこれを知らせた。当時のフランスはナポレオン3世の時代。宗教の使命と国家の目的を混同するほどに、カトリッ クを侵略に利用していた時代だった。ローズ司令官とベルヌー代理公使は、カトリック教徒迫害を口実に、朝鮮を開港させようとした。救援を要請したのは、宗 教の使命に忠実なフランス宣教師だったが、それを受けたのは、外交と軍事目的のために宗教を利用していたフランス政府だった。1866年 8月 10日、ローズ提督は3隻の軍艦を率いて、偵察のための1次遠征に出る。衝突はなかったが、この事件で朝鮮朝廷は慌てふためく。国民は怯え、官僚は動揺し た。朝廷は慌てて沿岸の警備を強化させ、村ごとに城塞を積んで船を修理させた。多くの儒者たちが西洋勢力を排斥しなければならないと叫び、邪教を排除すべ きだという上訴が殺到した。10月 13日、勿溜島の沖合に7隻のフランス軍艦が集結した。日本の横浜に駐留していた軍隊まで動員させ、軍勢は約600名にもなった。翌日、フランス軍は江華 島の甲串津に着いて占領下とし、漢江の河口を封鎖した。翌朝になるとフランス軍は江華府を攻撃し、あっさり占領した。その翌日には、通津府も襲撃して略奪 と放火をはたらいた。大院君は強化守備軍を増やして将兵を集めると同時に、侵略者を追放して国を守るという文を議政府に送って軍民の敵対心を奮い立たせ た。帰浦沿海の巡撫使中軍だった李用熙(イ・ヨンヒ)は、地方で集めたトラの猟師など500名の兵力を、ソンドルモク(訳者注:漢字のない地名)を越えて 鼎足山城に配備するよう千摠梁憲洙(ヤン・ホンス)に指示した。ついにフランス海兵160名が鼎足山城の東門から侵入し、潜伏していた梁憲洙の部隊が一斉 に攻撃を加えた。フランス軍のうち6名をその場で即死させ、30名余りに負傷を負わせた。奇襲をかけられたフランス軍は慌てて退散し、そのまま甲串津に引 き返した。様々な事情を踏まえて、翌日にフランス軍は静かに江華島から撤収した。ローズ提督は江華邑の放火を命じ、それまでに略奪した書籍、武器や金・銀 塊を軍艦に積んで朝鮮を発った。翌年初め、日本は特命全権大使に黒田清隆、副使に井上馨、随員に宮本小一、森山茂ら4人の全権使節団を朝鮮に派遣した。対 する朝鮮側の官僚は接見大官シン・ホン、副官 尹滋承(ユン・ジャスン)、従事官 洪大重(ホン・デジュン)であった。1876年2月11日、江華島の練武堂で朝鮮と日本の第1次交渉が行われた。ここで黒田は雲揚号事件を取り上げ、朝鮮 が日の丸を冒涜したと責めた。それは日本国旗冒涜罪で朝鮮を窮地に追いこもうというものであった。その間、江華湾の日本艦隊は時折、大砲を撃ち朝鮮側の接 見官に恐怖を与えた。間接的な脅迫であった。これは1853年ペリーが日本に来航した際、江戸湾(東京湾)に艦隊を入港させ海上デモを行い、日米和親条約 (1854年)を締結した手法と同じものであった。交渉は勢いに押された朝鮮側が日本の要求に応じる形となった。この時、朝鮮朝廷は日本との講和の可否に おいて意見が不統一であった。金炳学(キム・ビョンハク)、洪淳穆(ホン・スンモク)ら、ほとんどの大臣は反対であった。しかし右議政 朴珪寿(パク・キュス)は「朝鮮が内修外攘(国内を安定させ、外敵を排斥する)方策をとっていたなら、日本が我が国を狙い、恐喝や脅迫など勝手な振る舞い ができただろうか。無念だが今日の朝鮮軍では日本に太刀打ちできない。ひとまず講和しよう」として講和を結ぶことに賛成した。この時、清国から戻ってきた 李裕元(イ・ユウォン)が開港を勧告する総理衙門大臣 李鴻章(り・こうしょう)の緊急書簡を朝廷に伝えた。自国内にも多くの問題を抱えていた清国は朝鮮で紛争が起こることを望んではいなかった。さらに南下し ようとするロシアを考慮する時、日本が朝鮮と結ぶ条約にあえて反対する必要はないと判断したのであった。結局、朝廷は講和を結ぶ方針を固めることとなっ た。江華島の練武堂で朝鮮の代表尹滋承と日本の代表(黒田、井上)との間で日朝修好条規(1876年2月21日、江華島条約あるいは丙子修交条約)が締結 された。その年8月には同条約に根拠として修好条規付録と貿易規則も成立した。

日朝修好条規
日 朝修好条規第1条は「朝鮮国は自主国として日本国と平等な権利を保有する」である。その他の条項は2港開港(元山1879年8月28日、仁川1881年2 月28日)、使節の派遣及び開港地での日本人の往来の自由と通商許可、土地の賃借と家屋の建築、日本の朝鮮海岸測量、領事の派遣と裁判権などである。付録 では開港地10里以内の日本人の自由な旅行と日本貨幣流通の許可が決まり、貿易規則にはアヘン貿易の禁止と日本船舶の入港税免除、そして輸出入品の関税免 除という史上初めての無関税条項(関税権は1883年11月に回復)も盛り込まれた。日朝修好条規は形式上、朝鮮が最初に締結した近代的条約だったが、内 容上は不平等条約であった。まず条約の一方性に問題があった。すべての内容が日本側の朝鮮に対する権利を規定しており、条約の有効期間や破棄に関する条項 がないため、物理的に力を持った日本が思いどおりに従属させることができるようになった。日本貨幤の流通圏確保、輸出入商品に対する無関税、開港地での日 本人の犯罪に対する朝鮮の裁判権の排除など、日本は朝鮮側の無知を利用し詐欺を行ったも同然である。結局、この条約は日本にとっては周到に準備された征韓 論実行の初期段階であり、朝鮮にとっては準備ができていない状態での近代化の第一歩目となった。
当然、日朝修好条規締結と前後して開化政策に反発 する衛正斥邪運動も起こった。当時、講和を拒否した主要人物は斥邪論の提唱者といえる李恒老(イ・ハンノ 1792-1868)の弟子 崔益鉉(チェ・イクヒョン)や張皓根(チャン・ホグン)らであった。崔益鉉は1876年1月、漢陽(ソウル)の宮廷前へ斧を担いで赴き、講和に反対するよ う上疏した。「私の主張が聞き入れられないなら、この斧で私の首をはねよ」と言ったのである。内容の骨子は日本と西洋は盗賊だというものであった。日本と 西洋各国の人々が聞いたら驚くだろうが、衛正斥邪論派の言う「彼らの奢侈品と我々の生活必需品が交換されるようになれば我々が荒廃する」という主張には一 理あった。日本と講和を結べば国は滅びる。すなわち交易をすれば滅びるという結論は極めて妥当だったのである。しかし、高宗や大臣らはこの現状に頭を抱え た。高遠な理想論や尭舜時代のことばかりを語る人々の中にあって、この難局をどのように突破していくかということが高宗の悩みであった。高宗は上疏の内容 が破倫であるとして崔益鉉を全羅道の黒山島へ、張皓根を全羅道の鹿島へ流刑に処した。その後、日本との条約が締結されることになり、この時の運動は失敗に 終わった。政府が国の門戸を開くと衛正斥邪運動の様相も変化していった。日朝修好条規の締結以後、政府では開化政策推進の一環として海外に使節・視察団を 派遣し始めた。その主なものは1~2次に渡って日本に派遣した修信使(1876年と1880年)と紳士遊覧団(1881年2月)、そして清国に派遣した領 選使(1881年11月)である。第2次修信使 金弘集(キム・ホンジプ)らは日本から持ち帰った『朝鮮策略』を政府に献上した。

朝鮮策略
1880 年頃、清国 駐日公使館の参事官だった黄遵憲(ファン・ジュンホン)が著した外交問題を扱った書物。元々の題目は『私擬朝鮮策略』である。内容は朝鮮、日本、清3国は 西洋の技術制度を取り入れ習得しなければならず、ロシアの南下勢力を阻止するために東洋3国が結束し、またアメリカとは連合すべしというものである。政府 は儒生(儒学を修める者)らにそれを配布したが、反発に遭い上疏事件を起こされてしまう。80年に開化政策が施行されるきっかけとなった。政府は、この本 を役人や儒生らに勧めた。しかし保守的な儒生らはもちろん、役人からも本の内容ついて猛烈な反発を受けることになる。日本との開港自体が反発を買っている 状況で、西洋を獣だと見なしカトリックを西洋の学問だと見なす保守的な儒生らは「お上は正気の沙汰とは思えない」と反発を一層強めていった。政府にはまず 儒生 李晩孫(イ・マンソン)らの『嶺南万人疏』が送られ、その後、洪時中(ホン・シジュン)、洪在鶴(ホン・ジェハク)らの激しい上疏が間髪を入れず続いた。

嶺南万人疏
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1881 年当時、政府内で起こっていた開化の動きに反対して、慶尚道礼安の李晩孫を代表とする嶺南の儒生らが朝廷に奏上した上疏文。1880年、修信使 金弘集が日本から持ち帰った『朝鮮策略』は高宗と朝廷の重臣らに影響を及ぼし、中国、日本、アメリカと力を合わせてロシアを退け、西学を修めよという政策 が立てられるようになった。これにより政府の無分別な門戸開放政策を糾弾する衛正斥邪運動らの反対の動きが激しさを増し『嶺南万人疏』事件が起こった。結 局、これを主導した李晩孫や儒生らは皆、流刑もしくは都から追放された。しかし、これらの上疏文はその後、各地方の儒生らの開化反対運動の拡散に大きな影 響を及ぼした。


STAFF & CAST
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 幼少期 中 期 晩 年
明成皇后 役/ムン・グニョン(幼少期)、イ・ミヨン(中期)、チェ・ミョンギル(晩年)
本 貫はヨフン、姓は閔、ヨチョン出身。肅宗継妃・仁顯皇后の父である閔維重の五大孫で、ヨチョン郡守をしていた閔致禄の娘。8歳のときに孤児になり、本家で 貧しく暮らすが大院君の夫人である閔大夫夫人の推薦で王妃候補として宮廷へ。1882年、壬午軍乱で宮廷から脱出、開化党の尹泰駿の家を経て忠州・長湖院 へと逃避行を続ける中、大院君により王妃の国葬が宣布されると同時に尹泰駿を高宗へ秘密裏に送り、自身の健在を知らせるとともに清に支援要請を行う。清国 軍の出動で壬午軍乱が鎮圧されると、大院君が清へ連行されるように要請、閔氏政権の再び樹立する。1894年、大院君の再登場で甲午改革が始まると、今度 はロシアに接近し、日本勢力を追放するよう働きかける。これに対し日本公使・三浦梧楼が明成皇后弑逆事件(乙未事件)を画策、8月2日、日本浪人を宮中に 潜入させ、明成皇后を景福宮内で刺殺。死体を宮闕外に持ち出し焼却する。その後、彼女は廃位され、庶民の扱いとなるが、10月に復号になり、1897年 (光武1年)には「明成」の諡を受ける。その年の11月、国葬により清涼里郊外の洪陵に祭られる。
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高宗 役/イ・ジュン(幼年期)、イ・ジヌ(成年期)
朝 鮮王朝第26代王(在位1863~1907)。英祖の玄孫、興宣大院君・李ハウンの2番目の息子。1863年(哲宗14年)12月、哲宗が世継ぎなしに崩 御したため、趙大妃の指導により、12歳で即位。まだ年が幼かったため、趙大妃が摂政をしたが国政の安定を期すためとして大院君に政権を移したため、以降 10年に渡り大院君が執政を取ることになる。
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興宣 大院君 役/ユ・ドングン
英祖の直系の曾孫である南延君の4番目の息子。高宗の父であり、明成皇后の舅。長男に李載冕、次男に李命福(高宗)、三男に李載先を持ち、ほかに3人の娘がいる。
本名は李ハウン。
永保堂李氏 役/チョン・ソンギョン
高宗の第1子・完和君を産んだ人物。高宗より年が上だったが、完和君の死後、精神に異常をきたして失語症にかかる。以降、言葉を話すこともママならず一生をさびしく暮らして死去。
感古堂李氏 役/ソヌ・ウンスク
明成皇后の母。閔致禄の妻。
閔大夫夫人
興宣大院君・李ハウンの妻で、高宗の母。明成皇后を推薦して宮廷に入れた人物。
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大王妃 趙氏 役/キム・ヨンリム
純祖の世継ぎだった、死んだ翼宗の王妃。高宗を王に立てて摂政を行う。
李最應 役/イ・ヨンフ
興寅君。大院君の実兄。
興寅君の妻 役/オム・ユシン
興寅君の妻で、高宗の伯母に当たる。
金炳學 役/パン・ヨンジ
安東金氏の外戚勢力を背景に、大司憲、判書などの官職を歴任した実力者で、大院君と親しかったため、大院君は金炳學の娘を王妃候補にすると約束する。大院君が執権についた後、安東金氏の勢力がすべて没落した後も彼だけは出世街道をひた走ることができた。
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閔升鎬 役/キム・ヒョウォン
王妃の父・閔致禄の養子。王妃の兄にあたる。権勢を狙うも大院君の掣肘により爆弾を仕掛けられて死亡。大院君の実兄。
李景夏 役/キム・ジュヨン  近衛隊長。
大妃 役/ユ・ヘヨン    哲宗の妃。
王大妃 役/キム・ジョンハ  顯宗の妃。
趙斗淳 役/キム・サンスン
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金左根 役/ソン・ジェホ
安東金氏の左相。
完和君
高宗の第1子。13歳で麻疹を患い死亡。当時7歳だった世継ぎの(純宗)を擁立する王妃が毒殺したという噂が立つ。
李載冕 役/ハン・ボムヒ
大院君の長男。父から「牛のような馬鹿」と蔑まれて、一時は叔父の閔升鎬に荷担する。
閔京鎬 役/キム・ソンハン
兵曹判書だった兄の閔升鎬が爆弾テロで死んだ後、王妃の父・閔致禄の養子を継ぎ、王妃の義兄となる。
洪尚宮 役/キム・ボミ
中殿(王妃)付の女官。軍人による暴動の際に、自らの服を着せて明成皇后を逃がす。c7
閔台鎬 役/ヒョン・ソク
1834 年(純宗34年)~1884年(高宗21年)。朝鮮後期の外戚臣。斥邪派兪シンファンの門人で、1870年庭試文科に丙科で及第。いくつもの官職を歴任 し、1875年9月の江華島事件(雲揚号事件)の際は京畿道観察使の地位にあった。その後閔氏中心の事大守旧党の重鎮として金玉均らの開化党勢力と対立し た。
張尚宮 役/イ・ジェウン
大田から高宗の寵愛を受け貴人の位にまで上り詰める。明成皇后からは見ることができない、明るく闊達な性向を持ち、高宗に愛でられるとともに明成皇后とは微妙な関係になる。義親王・李ガンの母。
洪啓薰 役/ホン・イルグォン
?~1895年(高宗32年)。朝鮮末期の武官。洪尚宮の兄。武芸別監(宮闕守備隊長)として1882年(高宗19年)に壬午軍乱が勃発した際、暴動が起きるや否や明成皇后を背負って宮闕から脱出させた功により重用される。明成皇后弑逆時、死亡。

人物相関図
明成皇后 chart
















各話エピソードガイド
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第1話
1864 年、急逝した哲宗の跡を継ぎ、朝鮮王朝第26代の王、高宗が即位した。哲宗に世継ぎがいなかったことによる、政治的取引の産物であったが、これにより権力 を握ったのが、王の実父である大院君であった。大院君は、安東金氏や豊壌趙氏の勢道政治により、王族でありながら不遇の日々を強いられた。そうした状況を 打破するべく敏腕を振るう大院君にとって、直近の課題が2点あった。第一に大王大妃趙氏による垂簾聴政を終わらせること、第二に高宗の王妃を定めること。 そこで、妻である府大夫人閔氏の一族である、閔ジャヨンに着目する。
第2話
父 を早くに亡くし、没落した家門の娘である閔ジャヨンは、外戚の干渉を阻もうとする大院君にとって好ましい王妃候補であった。ところが大王大妃趙氏も一族の 娘を候補と目していた。大院君は大王大妃に、垂簾聴政を終わらせる代わりに、王妃選びを一任すると持ちかける。大院君が政治生命をかけて挑む一大事業、景 福宮の再建工事は、財政難に悩まされていた。大院君は安東金氏の座長、金左根を訪ねる。金左根は大院君を恐れ、大金を寄付すると申し出て、宴を催すのだ が…。
第3話
宴の料理に毒を盛られたと、安東金氏を恫喝する 大院君一味。金左根は大院君の意図を察し、大王大妃の垂簾聴政を終わらせることに協力する。大王大妃は垂簾聴政を降りることを宣言し、後事は大院君と協議 して決めるよう言い残して御前を立つ。 こうして大王大妃に代わり実権を握った大院君は、言葉巧みに大王大人の約束を反故にし、閔ジャヨンを王妃に選ぶ。しかしそんなことは、封書係である宮女李 氏を溺愛する高宗には知る由もなかった。
第4話
閔ジャヨンが 王妃に決まり、兄の閔升鎬らは歓喜する。大院君は王妃を迎え入れることを口実に、大王大妃の居を楽善斎に移し、豊壌趙氏の勢力を抑えるとともに、金炳学を 抱き込み、安東金氏一門を懐柔しようとする。そんな大院君も、景福宮の工事の進度が上がらないことには業を煮やしていた。そんなある夜、工事現場が火災に 見舞われる。
第5話
政治生命をかけた景福宮が火に包まれたこ とで、大院君の怒りは頂点に達し、営建都監である実兄の興寅君を叱責する。この火災を反対勢力の示威と考えた大院君は、王室の秩序を確立することを急ぎ、 幾多の手続きを短期間で済ませ、高宗と閔ジャヨンを成婚させる。しかし高宗はその夜、閔ジャヨンと床を共にせず、李尚宮のもとに走る。
第6話
周囲に説得され西温突を訪れた高宗を、王妃はやさしく李尚宮の部屋に行かせる。翌朝、大院君の不意の訪問にも、王妃の機転で事なきを得る。大院君は王と王妃を前に、信用するに足るのはこの3人だけだと諭すが、心中を察することのできない王妃の表情に、嫌悪感を覚える。
第7話
王 道政治の回復と万民平等という政治的理想を金炳学に語る大院君。その矛先は、勢道政治と結託し、守旧勢力の巣窟と化していた書院へと向かう。大王大妃はこ れに正面から反対し、大王大妃の一族である趙寧夏も、金左根の息子である金炳冀と会談するなど、対決姿勢を強める。一方、宮中では王妃と王が疎遠であると いう噂が広まる。府大夫人は宮中を訪れ李尚宮を叱責し、閔升鎬は王妃を軽んじる大院君に不満を抱く。
第8話
大 院君は景福宮の火災の原因究明を口実に、民心の引き締めを図ると共に、火災によりさらに逼迫した財政を補うため、人頭税や通行税といった新たな負担を民に 強いる。異を唱える重臣たちを前に、西欧の脅威を語る大院君のほおには涙が伝う。一方、高宗に袖にされ、読書で夜を明かす王妃閔氏。その徳の深さに、同副 承旨を務める高宗の兄、李載冕ら周囲の信望は増すばかりであった。
第9話
高 宗の寵愛を受けた宮女李氏の妊娠が判明。大院君は王の血筋であれば嫡庶を問わず世子に任命する意向を明らかにする。西温突にて一人夜を明かす明成皇后の立 場は悪くなるばかりだ。一方、開国を迫る西洋列国の圧力が強まる中、大院君の父である南延君の墓が西洋人によって暴かれる事件が起こる。朝廷の重臣たちを 一喝する高宗に、大院君は目を細める。
第10話
宮女李氏が男 児を出産。王室では李氏の処遇をめぐり、論争が起こる。大院君は李氏に高い品階を与えようとするが、大王大妃や朝廷の重臣らはこれに反発する。また、王妃 閔氏を推す府大夫人や閔升鎬は、大院君が王妃を疎んじていることに不満を募らせる。大院君は景福宮の工事による財政の逼迫を打開しようと、当百銭という新 貨幣を発行するが、貨幣価値は混乱。大王大妃を筆頭とする豊壌趙氏や安東金氏の勢力は、こうした民衆の不満に乗じ、大院君の独裁に歯止めをかけようと画策 する。

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