カテゴリー「古代史」の5件の記事

奈良の弥生前期の大規模水田遺跡

日本の稲作は、朝鮮半島から伝わった説は否定されている。
稲のプラントオパールとか、DNA分析の結果からも、また、朝鮮半島に水田遺跡ができた時代が、日本よりも新しいことなどから、明らか。

日本で稲作、特に水田が始まったのは、どの時代からか?
今回発掘された遺跡は、かなりびっくり。

産経新聞引用

弥生前期の水田跡、国内最大規模に 奈良・中西遺跡

2011.11.8 18:34

 奈良県御所市條(じょう)の中西遺跡で、弥生時代前期(約2400年前)の水田跡約9千平方メートルが出土し、県立橿原考古学研究所(橿考研)が 8日、発表した。過去の調査と合わせ、周辺の水田跡は計約2万平方メートル以上に達し、同時期の水田跡としては国内最大規模となる。橿考研は「当初から広 大な平地を選び整然と開墾した弥生人の計画性が伝わる貴重な発見」としている。

 今回の調査で、3×4メートルを標準サイズに整然と区画さ れた水田跡約850枚が見つかった。橿考研の平成21、22年の調査で同遺跡からは水田跡約7400平方メートルが出土。北側に隣接する秋津遺跡からも同 時期の水田跡約4千平方メートルを確認しており、今回の水田跡を含めると計約2万400平方メートルとなる。

 このため、弥生時代前期の水田跡としては最大級とされる服部遺跡(滋賀県守山市)の約1万8700平方メートルと、池島・福(ふく)万(まん)寺(じ)遺跡(大阪府東大阪、八尾両市)の約1万8千平方メートルを超える規模となった。

 橿考研によると、中西遺跡周辺は、弥生時代前期の大洪水で0.5~1.5メートルの土砂に埋まり、当時の水田がそのまま保存されたと考えられるという。

 大阪府文化財センターの江浦洋調査課長は「水田エリアは時代をまたいで継続的に開墾されるため、水田跡が広大な範囲で出土するのは珍しい」としている。

 現地説明会は12日午前10時から。JR和歌山線玉手駅から南西徒歩約20分。問い合わせは橿考研((電)0744・24・1101)。

弥生前期の大規模水田遺跡とは、すごい。

この時代に、水田がこれほど大規模に作られているとしたら、都市国家のようなものもあって当然ではないだろうか。

古代史は、いったいどうなってるのだろうか。

すごい。。。


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日本語の起源に関する最新説の本

日本語の起源について、いろいろな説がある。

タミル語起源説などというものがあって、朝日新聞がしつこく主張していたそうだ。
大野晋という学者の説で、私も聞いたことがあるが、それについては徹底的に批判している。
また、韓国人の数学者とかいう人物の書いた本で、韓国語と日本語が似ているという本を立ち読みしたが、数学者がこのようないい加減な本を書くのだろうか、と、驚いた。

内容については、あまりじっくり見なかったので、よく覚えていない。
韓国の数学のレベルは、日本よりも低いはず。
今調べてみたら、名前を見つけた。
「日本語の正体」という本。

今回、購入して読み終えた本は、研究史 日本語の起源―「日本語=タミル語起源説」批判 (推理 古代日本語の謎) という本。


先日、分厚い本だが、読み終えた。

この本の方法は、多変量解析。

実は、私は多変量解析にはかなり愛着がある。

職場で、時系列分析の仕事をした時、無料の多変量解析プログラムBMDPも、使うことができたので、いろいろやってみた。

ゴンペルツ曲線とボックスジェンキンズ法が、よく当てはまるようなデータだった。

大体、そんなものだろう。

ボックスジェンキンズ法はなぜかよく当たるので、理論なき計測なんて、悪口を言われていたが、今はどうなっているのだろうか。

最新の方法は知らない。

先日、ちょこっと聞いた話によると、いろいろなバリエーションを検討できるような洗練されたモデルになっているらしい。

30年前のことだけれども(歳がばればれ)、その当時、アメリカの経済分析などでは、3割近くの分析が、多変量解析で行われるようになっていて、どんどん研究が進んでいた。

日本では、産業連関モデルというソ連のレオンチェフモデルのような時代遅れのモデルを後生大事に教えていて、なんと某省のモデルもそのようなものらしいとわかった。

今でも子供手当の波及効果などというと、たぶん産業連関モデルなのではないかと思う。

官庁統計は、今、どのような方法なのだろうか。

多変量解析を使うと、すごい結論が出る。

それを知っているから、この本が多変量解析を使って分析したと書いてあるので、購入して読んでみた。

今、言語学の研究では、オーソドックスな方法となっているのが、この本の方法だそうだ。

今や、あらゆる場所で多変量解析が使われているらしい。

多変量解析を適用できるところまで、データを作っていく部分が、難しそうだが、なるほどと思われるような手順を踏んでいる。

そして、得られた結果は、DNA解析によるものと同じ結果だったという点からも、信頼性が高まる。

朝鮮語はアイヌ語と一番似ていて、日本語とともに古極東アジア語の仲間。

日本語と朝鮮語が分離したのは、およそ7000年前。

日本語には、4つの層があり、第1の層は、古極東アジア語。第2の層は、インドネシア・カンボジア語などのグループ。第3のグループは、ビルマ系江南語、第4のグループは、中国語。

漢字の音読みの読み方は、漢音と呉音があるそうだけれども、呉の国は、呉越同舟ということわざにもあるように、春秋戦国時代に滅びた国。

呉王夫差の子孫が日本に逃れてきたという伝説があるそうだが、呉音という形で、言葉の中に残っているらしい。これら以降が、第4のグループなのだろう。

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カンボジアのあたりから、移動したのがミクロネシアとか、ポリネシアの海洋民族で、広い太平洋に散らばった島

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カンボジアのあたりから移動し、ミクロネシア、ポリネシアなどの南太平洋の島々に散らばった海洋民族は、ほとんど同じ言葉なのだそうだ。

大昔に、あのような大海原を移動していた海洋民族がいたとは、信じられないけれども、今でも、船の上で生活する民族もいるらしい。

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この斜線の範囲が、日本語と同じ語順。

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近親性と、いつごろ分離したと想定されるかを、グラフにしたもの。

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ツタンカーメンの黄金のマスクの秘密

先週の土曜日、20日に、ツタンカーメンの黄金のマスクを携帯型X線照射機で調べるというドキュメンタリーを放送していました。

ツタンカーメンの黄金のマスクにある色で、反物を織って、献上するという番組でした。

その結果、ツタンカーメンブルーという初めて発見された染料と、ツタンカーメンゴールドという新発見の合金が使われていることがわかりました。

染料はともかく、純度の違う黄金が非常に薄くコーティングされていて、それが白っぽく光り輝くような効果を与えていたそうです。

この合金は、黄金に銀や銅が混ざっていて、非常に硬いそうで、それを非常に薄い金箔にして、織物にするのが大変だったそうですが。

しかし、ごく薄く金メッキをするのは、かなり高度な技術が必要だと思うのですが。

古代のエジプトにそんな技術があったなんて驚きです。

もちろん、ピラミッドもすごいのですが。。

アトランチスなど、古代に、優れた技術があって、それが失われてしまったという発想が、ヨーロッパの神話や、物語などに、よく出てきます。

コナン・ザ・グレートなども、そういうイメージで、おもしろいのですが。

魔術とか、中世の暗黒時代などには、すっかり退化してしまった上体ですが。

オーパーツとか、古い地層に出てくることもあります。

与那国島のそばの海底に、「神々の指紋」のハンコックが調べた海底遺跡があります。

あれも絶対すごいと思います。

日本の古代もよくわかりませんが、日本人の起源は、ウィキペディアによると、かなり面白い結果が出ているようです。

ハプロプロジェクトというDNAのデータを集める研究でいろいろわかってきてようです。

DNAによって、先祖を探る方法は、ミトコンドリアDNAによって、母系の先祖をたどる方法と、Y染色体によって、父系の先祖を調べる方法があります。

日本列島は、火山性の土壌なので、酸性のため、あまり骨が残らないそうです。
ということは金属も残らないのかもしれません。

最も古い縄文土器があって、青銅器時代がなくて、突然鉄器時代になると思われていたようですが、もしかすると青銅器時代もあって、青銅器の遺物は残っていないだけなのかも。

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秦の始皇帝

ムービープラスで、やっとレッドクリフを見ました。

先日話題になったのと違うのかな?

パート1です。

石弓を持った兵士が二段構えで、入れ替わり射るのは、秦の始皇帝の時代からです。

レッドクリフは、800年前だそうですが、秦の始皇帝は2000年前。

秦の始皇帝のドキュメンタリーを見ました。

北方の騎馬民族だそうですが、野蛮だといわれていながら、ヨーロッパの文明よりもはるか昔に、高度な技術を持っていたそうです。

ヒストリーチャンネル4回分です。
(第1部前、後、第2部前、後)。
第2部前は、DVDに保存できなかったので、省略。

紀元前240年ローマがカルタゴと戦争していた頃、ユーラシアの反対側で500年以上7つの国が争っていた。春秋戦国時代だ。
中でも特に強かったのが、漢、楚、秦だった。
紀元前238年、秦の都、かんよう。
宰相の呂不偉が実権を握っていた。

後に秦の始皇帝となる秦王の政は、母親の裏切りによって殺されそうになった。
母親には、宦官と偽っていたロウアイという愛人がいた。
二人の子供までいたことがわかり、ロウアイを処刑しようとしたところ、逆に危うく近衛兵に殺されそうになった。
この経験によって、政は、誰も信じなくなったそうだ。

紀元前1027年、周の国境で、秦の祖先は、遊牧民だった。
周はおよそ1200もの諸侯を束ねる大国で権勢を恣にしていた。
しかし、強敵がいた。
フン族やモンゴル人の祖先に当たる北部の騎馬民族が領土を荒らしていた。
ついに周の皇帝の命を脅かすまでになった。周の皇帝は騎馬民族の連合軍が迫ってくると、都から脱出するしかなかったが、都を守るために、何らかの助けが必要だった。
都に留まり、騎馬民族と戦ってやろうという援軍が必要だった。
それが秦だった。この戦いこそが、秦の人々の行く末を変え、秦の始皇帝誕生の足がかりとなった。

紀元前770年、周の都城で、秦が生まれようとしていた。
周の都が襲われ、周の王が捕らえられようとしていたとき、救出に現れたのが秦の始皇帝の先祖だった。
ジェフリー・リーゲル「秦の王は周の王に忠実でした。彼は、周の王が追っ手から逃れる手助けをしました。その後、周が東に都を移す際にも手を貸しました」
秦は、見事に敵の猛攻撃を食い止めた。勇敢な秦の兵士のお陰で周の王は命拾いをした。秦の功績が認められた。
ロビン・イェーツ「忠義を尽くした熱心な働きに対する報酬として、周の王は、秦の指導者に土地を与え、領主と認めました。それまで、秦は周の国境の外側に張り付いたごく小さな集団に過ぎませんでした。それが、戦いの後、東アジア屈指の兵力を誇る大国の仲間入りをしたのです。それは世界でも最大規模の国になったことを意味しました」
秦の国の誕生でした。

3000年後の1974年、中国西部陝西省、ハーバード大学マイケル・プエット氏が話す。
文化大革命の頃、秦の都があった郊外で、井戸を掘っていた農民がある像を掘り当てて、これが兵馬俑の発見となった。
何千体もの兵士の像や、馬車、馬などが出てきた。
6月には2つめ、7月には3つめが出てきた。
紀元前235年、秦の都、咸陽。
秦王、政は、政治でも軍隊でも非常に厳格だった。スパルタに匹敵するほどだった。
北部の騎馬民族と繰り広げてきた戦いの中で培われてきた厳格さが、秦を強くした。

17歳を過ぎた男性は、軍隊に入ることが義務づけられていた。そして徹底的に鍛えられた。兵馬俑は、精鋭部隊を表している。
巨大な戦車を繰り出していた事が分かる。
歩兵部隊は丈夫な鎧を身にまとっていた。
戦車に乗っていたのは、司令官。
指令は太鼓や旗印によって、兵士に伝えられた。非常に小回りのきく戦車だった。
騎兵隊と馬も発掘された。
ごく小さな帽子をかぶった騎兵隊は、様々な任務をこなしていた。物資の供給ルートから敵を排除したり、斥候として敵の様子をうかがったり、部隊からはぐれた敵を襲ったりすることもあった。内陸の平野で、敵と相まみえるときは重要な役割を果たした。
まれに見る長さの刀、1メートル近い刀が発掘された。
長い刀は接近戦で非常に有利だった。
刀は銅80%、錫20%の合金であることが分かった。最もかたい刀だった。
その表面には、クロムがつけられていたため、さびていなかった。
発明されているはずのない技術だった。思うがままに金属を操る事が出来た秦の職人たちは、少なくとも西洋人に2000年も先駆けていた。
クロムは1937年にドイツで発見されて、1950年代にアメリカで加工できるようになった。
銅でできたやじりも4万個以上発掘された。
錫、銅、鉛でしかも、均一の組成で、すべての鏃が、ひずみもなく、同じ角度、重さも同じ、流れ作業で大量生産されていた。
古代にあった軍事工場の原型といえる。
微に入り細にわたり、徹底して組織づけられた集団だった。

とてつもなく革新的な技術がもう一つあった。
石弓が、西洋で使われ始めたのは、10世紀も後だった。
秦では、石弓が使われていた。
秦では、石弓に引き金がついていたため、効果的に石弓を使うことが出来た。引き金のお陰で、より強く、より早く、遠くからでも放てるほうになった。強く、早業で連続して射ることが可能になった。
秦には、空気力学的な知恵もあったことがわかった。
やじりは三角錐の形をしていて、現代の銃に使われるように、空気抵抗が少なく、しかもとがっている。
150メートル離れたところにいる敵でさえ殺害することが出来た。

弓を持った射手の戦わせ方にも、秦の技術がわかる。立った射手と、座った射手が並んでいた。矢を放った射手が、前後に、入れ替わることによって、間髪を入れずに矢を発することが出来て、敵との距離を保てることになった。

李斯が戦略家になった。
漢さえ征服すれば、チョウなどのそれ以外の国は、たやすく手に入る。
それまで、世界中で秦ほどの大軍を集めた国はなかった。
この瞬間から、天下統一の戦いを始めた。

紀元前230年、秦王の野望は、諸国統一だけではなかった。
1年近く、秦と漢は互角に戦い続けた。
双方で何千人もの兵士が屍となった。多数の兵を失いながら、秦は、ついに漢を打ち負かすことに成功した。

紀元前228年、超の国境に攻め入った。
秦王は超に恨みがあった。
秦王は、父親が超の人質になっていた時代に生まれた。復讐であり、絶対に超を滅ぼさねばならなかった。
ジェフリー・リーゲル教授曰く「自分と両親が受けた仕打ちを根に持っていたに違いありません」
軍は50万。圧倒的な大軍だった。
ミュンヘン大学ハンス・エバンズさん「40万から60万と言う数字を耳にするとき、秦の国民全員が軍として戦っていたに違いないと思うのです」
同じ頃、カルタゴと戦ったローマ軍は6000人。
アレキサンダーでさえ軍は、4万人、ナポレオンは10万人と言われている。
秦の兵士の数については、戦闘要員だけを数えたのか、それとも、補助的な要因も数えたのか、判明していません。ですが、世界中の軍隊と比較すると、秦の軍隊は遙かに数で勝るのです」
「謎が残ります。秦はどうやって、それだけの数を集めたのでしょうか」
考古学のお陰で、その謎を解く手がかりを見つけることが出来ました。
1975年、中国湖北省、兵馬俑の発見から1年後、驚嘆に値する発見をした。
命を落とした兵士の墓。
完璧に保存状態のいい木の手紙が発掘された。
手紙には、秦の国の兵隊として生きるということがどういうことか教えてくれる。
「戦いが長引いているせいで、着るものを買わなくてはならないので、金を送ってほしい。自分の立てた功績がきちんと記録され、報告されているのか?」
戦場の功績で与えられる階級は非常に重要だった。戦いで命を落とすことを恐れていたかった。戦闘を生き抜いたものには、褒美が与えられた。昇進し、土地がもらえた。負ければ、罰が待っていた。極端なアメとムチによって、兵士たちは非常に勇敢になっていった。報酬と罰によって、勇猛かつ残虐になっていった。
秦には、独特の基準があった。取ってきた敵の首の数が多ければ多いほど、位が上がる。敵の首が報酬につながると言うシステムが非常に効果的で、秦の軍隊は、恐ろしく残忍になりながら、忠誠心も強くしていた。
厳しい規則があった。10人からなる部隊が、一人を失った場合、その部隊は再び出陣して、敵の兵士の首を一つ取ってこなければならなかった。一定の期間の間にそれが出来なかった場合は、その部隊全員が処刑されることになっていた。
復讐に乗り出した王と、敵の血を流すことによって生活の糧を得る兵士たち、超の国にとっては、まざに地獄の体制だった。

紀元前228年、超の都、邯鄲。
門まで、秦の軍が迫っていた。無慈悲きわまる猛攻だった。
廃墟と化した超の都に、秦王政が、馬を運ぶ。
昔超にいた頃自分を苦しめた物たちを罰することで、個人的な恨みを晴らしたかった。
馬車に乗り込んで、町を走らせながら、覚えのある家を指さした。そしてその家の者を非常に残忍な方法で、処刑した。重罪とされたものは、秦に連行され、馬につながれ引き裂かれた。
まさに王の命令に背けばこうなるという見せしめだった。

紀元前225年までに、中国の地図は、様変わりしていた。
わずか6年のうちに強敵のほとんど滅ぼしてしまったが、まだ強国、楚が残っていた。
漢、超、次はいよいよ楚。
楚は大国で、大きな権力を持っていた。
楚の国は、規模からしても、財力や軍事力を鑑みても、秦にとって最大の敵国だった。

秦王は、優秀な二人の将軍、老練な王翦、若く血気盛んなリシンを呼んだ。
楚を攻撃するのに必要な兵力はどのくらいか?

リシンは、20万もいれば十分と答えた。
王翦は、少なくとも60万人が必要と答えた。
秦王は、リシンに20万の軍を授け、戦わせた。
しかし、ほどなく秦王はその決断を後悔することになる。最終的に秦の負け戦だった。帰還できたのは、わずか1万人だった。
年老いたとはいえ、賢明な将軍王翦は、田舎に引っ込んでいた。
秦王はロウアイの軍に勝利してからずっと勝ち続けてきたが、もっとも重要な局面を迎えたとき、決断を間違えた。
秦王は、王翦にわび、復帰してくれるように説得した。
「王翦、60万の軍を授ける」

「王翦は、紀元前224年、楚の国境近くに構えた砦に落ち着くと、その後数ヶ月兵をまったく動かしませんでした」
「大軍を組織しなくてはなりません」
単に組織作りが出来ないでいるかに見えた。
王翦将軍は、休んでいると見せかけて、密かに兵を鍛えていた。楚は、ほんの少し気をゆるして、守りをゆるめた。その隙を突いて、王翦将軍は60万の軍隊を率いて、そを襲撃した。王翦将軍が、攻撃を再開してからおよそ1年後、秦の軍は、最大規模の軍隊を率いて、戦場を埋め尽くした。
「皆のもの、我らの王はこの時を待ち望んでおられた。今日こそは敵を打ち負かす、これは天命である。すなわち、我らが王の意思なり」
秦は楚と正々堂々と戦い、真っ向からぶつかり合った。
秦と楚は、何日も血みどろの戦いを、繰り広げた。
王翦将軍の人並み外れた指揮能力と、60万の軍隊あってこその勝利だった。ついに楚を打ち負かした。
楚を自分の国に取り込むことに成功し、楚の国の人材も、領土も、富もすべて秦のものとなった。

統一の夢を追い始めてわずか9年で、最大の敵を倒した。残った国は、斉と燕だったが、降伏した。
燕は、大切な地図を贈ると言って降伏したが、それは暗殺計画だった。
紀元前223年、燕から刺客が送り込まれた。
地図に巻き込んだ小さな刀で、暗殺するはずだったが、刀は石の柱に突き刺さった。

燕は、1月のうちに敗北。
斉は降伏。
ついに中国は統一された。
現在の中国に当たる領土を秦は、たった10年で統一した。
数え切れないほどの死者がでた。120万人を超える死者が出たと言われている。

中国では、天下を収めるものは、政治に勝利したからではなく、天がそのものに力を与えたからだとされている。
秦王は、自らの政治における徳は、水にあると考えていた。
そのお礼に、川の神に玉を捧げた。
天下統一を成し遂げた秦王は、自らを人間界における神であると宣言した。
紀元前221年、神のくらいまで上り詰めた証に、帝と名前を変えた。生きて奉るべき神とした。
しかも、最高の神でなくてはならなかった。つまり皇帝。
そして、秦の最初の神、つまり秦の始皇帝ということになった。

中国の英語名は秦に由来する(china)。
行く末には多くの苦難が待ち受けていた。裏切りがつきまとい、それから逃れることが出来なかった。
始皇帝の歴史は、血塗られた歴史、それが中国の歴史なのだ。

(第2部前半は抜け)
焚書坑儒など。

第2部後半。

始皇帝は、神の仲間入りをしようとした。

不老長寿を求めるようになり、得体の知れない法師を宮殿にあげて、薬を作らせた。
道教では、水銀と酸を混ぜ合わせたものが体によいと言われていたが、もちろん毒であり、これが始皇帝の寿命を縮めたとされている。

紀元前211年、不老不死の島を探しにでかけた子供たちが戻ることはなかった。
永遠に生きたいという願いは到底叶いそうもない。始皇帝は別の方法を思いついた。
始皇帝は、死は完全なる終焉ではない、単に命の形が変わるだけだと思うようになった。
始皇帝は、他人から始皇帝は死んだと見なされたとしても、自分は生き続けることが出来ると信じた。肉体の死という変化の境界を越えて、永遠に生き続けることは可能だと思うようになった。
「朕はすでに不死身だからに決まっている。朕のくらいは神に等しい。例え体を失ったとしても自分は神のように生きるのだ」
ロビン・イェーツ教授「別の可能性を見いだしたのでしょう、自分は死後の世界で再び支配者になる。地下の帝国で再び皇帝として君臨するのだ」その数は8000体以上。
「始皇帝はとんでもなく大規模な地下帝国を作らせました。その考えは、自分の帝国が一万世代の後まで、栄えるだろうと考えてのことでした」
陶器の兵士たちは、滞りなく任務を遂行している。
始皇帝の墓そのものはいまだかつて開けられたことがなかった。それは十分な理由があった。
紀元前211年、墓の周りに町が一つ出来たようだった。壁の中で50万人から70万人が壁の中で働いていた。
機械仕掛けで、たった一カ所を引っ張るだけで、独りでに石弓が飛び出るようになっていた。弓の長さは何と3メートルもあった。もし墓を暴こうとしたら、弓が飛び出ることになっていた。
そして、墓の仕掛けを作った設計者を処刑した。
紀元前211年、始皇帝は体が朽ちても永遠に生きられると思っていた。多くの家臣たちは、主と一緒に埋葬される運命だった。古代の中国では、それが慣わしだった。しかし、始皇帝の場合は、それがあまりにも大規模だった。

兵馬俑の兵士たちの作り方は、巨大な陶器と同じ。
発見からおよそ30年たった今でも、まだ兵馬俑の発掘は続いている。

想像を絶する大きさなので、この先何年経とうとも、終わることはない。
始皇帝の眠っている塚だけは、おそらくこれから先も現状のままで開かれることはないだろう。

兵馬俑の周辺にある物を知る人はいない。日の目を見たのは墓の一部に過ぎないことは分かっている。

紀元前211年、始皇帝は、墓に移る際に何を道連れにしたのだろうか?
食料品、装飾品、金や銀の宝物、特に貴重な物は目録にされた。
さらにわかっているのは、始皇帝に使えた多くの女性が生きたまま墓に埋められたことだ。始皇帝の遺体の周辺には、秦の国が再現された。宮殿のミニチュアを地下にも作った。天井には、星空を再現するため、宝石がちりばめられた。床には、川や海や湖も作られた。水の流れは、水銀を使って再現された。実際、近年、墓から水銀が漏れていることが分かった。

中国政府は墓の発掘を望む声に応えようとはしていない。
遺品を損なうことなく保存できる技術を持ち合わせていないという。

紀元前210年、始皇帝は国内の視察を目的にした旅に出かける。最後の旅になる。
まだ49歳の始皇帝。しかし、その体はむしばまれていた。

始皇帝は重症の水銀中毒だったと推定されている。
この何年も前から、法師の作る薬を飲み続けていた。

始皇帝は体をむしばむ毒を自らあおっていたのだから、皮肉な話だ。

紀元前210年秋、ヘイキョウ。
前夜、弱った体で、遅くまで仕事をしていた始皇帝は、朝、丞相の李斯が起こしに行ったとき、目覚めなかった。

秦の始皇帝は世界史で特に偉大な人物に数えられる。彼の伝説は世界を変えた、30年足らずで天下を統一し、帝国を築きあげた。中国を作ったのだ。しかしその半分の年月で、国は崩壊することになる。
始皇帝は、遺書を書いていた。長男に譲ると書いてあった。一番の側近だった李斯が、遺書を書き換えた。権力を握っていたいために、李斯は、始皇帝の意思に反し、一番頼りにならない末の息子に譲ると書き変えた。無能で臆病な跡継ぎのために、秦の帝国は崩壊の一途をたどる。

始皇帝の死後、ほどなくして反乱が起こる。
戦国時代さながらの混沌とした状態になった。死からわずか4年後、蜂起した反乱軍の容赦ない攻撃にさらされる。漢だ。
その後400年、漢が中国の全土を支配する。
漢は秦が築きあげたものを基盤にして、大国をまとめ、政治を行った。秦ほどの過激な改革は行わなかった。秦の政治システムを少しずつ取り入れたが、地方の実態や、人々の正室を考慮したシステムで、現実を考慮した穏やかなシステムだった。

現在の中国にも、秦と似通った部分がある。
始皇帝は文字を統一した。それが中国全土で使われている。貨幣や文字の統一、運河や幹線道路の建設、それら始皇帝が導入したものは革新的だった。
その後2000年間に登場した王で、彼に匹敵する偉業を成し遂げたものはいない。

始皇帝が建設に力を入れた万里の長城は7不思議の一つに数えられる。

始皇帝は帝国という国の観念を導入した。それが何事につけ、一致団結できる中国の力の源になっている。
先人が残してくれた統一という遺産。

始皇帝は、ジュリアス・シーザーやナポレオン、ヒットラーに匹敵する。
第2次大戦後、毛沢東は自らを始皇帝に例えたと言われている。
始皇帝は、戦いを始めるだけでなく、戦いをおさめる能力もあった。
武力と政治のバランスを取ることにもたけていた。だからこそ、歴史上の大人物に数えられている。







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日本書紀について

KBSWORLDの韓国史傳という番組が、今年は、歴史追跡というタイトルになっていて、同じく歴史をテーマに追求している。

いろいろと面白い番組がある。

894年(確かそんな数字)に、新羅の海賊が対馬に押し寄せてきたと、日本の記録に残っている。

いろいろな角度から調べた結果、新羅が飢饉の時期であり、軍隊のような組織で、対馬を襲って、おそらく金を略奪したのだろう、と、結論していた。

そのころ、対馬には金山があったのだそうだ。

調べる過程で、日本書紀の記述が出てきた。

韓国の学者が、日本の資料は正確だと、言っていた。

日本書紀って、神話みたいなものだと思っていたのだけれども、正確な歴史が書いてあるとは、知らなかった。

日本人は、日本書紀を読む人なんてほとんどいないと思う。

また、ソドンヨの武王(主人公のチャンが即位して武王になった)の息子だと思うが、義慈王の時に、百済は滅亡する。

その義慈王は、韓国の歴史の中で、さんざんに悪く言われてきたのだそうだ。

しかし、今回中国で見つかった石碑により、百済滅亡の真実がわかったそうだ。
その石碑は、イェ・スクチャンという唐の将軍の墓にある。

結局、百済のイェ・スク将軍と、唐の将軍イェ・スクチャンは同一人物らしい。

そして、このイェ・スク将軍が、王に背き、義慈王を捕まえて、唐に降伏したらしい。

裏切りにより百済は滅びたのだそうだ。

そんな歴史があって、日本に逃れてきた百済人の側に立って、日本も加わって、百済復興運動として、白村江の戦いがあったのだ。

いったい古代の日本はどうなっていたのだろうか?

新羅村、百済村、中国村みたいに、渡来人の住む地域があったらしい。

日本書紀と古事記は一致していないらしい。

日本の歴史は、日本書紀と古事記に書かれていること以外には、ほとんどわかっていないらしい。

だから邪馬台国がどこにあったかわからないわけだ。

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